「場の共鳴現象」
「セラピーの3つの階層」

力を抜く

力を抜くと言うことはなかなか難しいものです。自分では力を抜いているつもりであっても、実際はなかなか抜けていない人を多く見かけます。私たちの運動は筋肉の収縮により力が骨に伝わり、人としての動きのパターンを表現します。
自分でコントロールできるはずの筋肉も感覚が鈍くなっているというのが現実ではないでしょうか。「力を抜く」ということの体験から身体をひとかたまりで考える時間を持ってみましょう。
ご存じのように身体の約3分の1は水分です。筋肉や骨格というイメージで身体に接することから少し離れて、『液体のつまった皮袋』という感覚でからだを感じていきましょう。
固いからだと考えると、力を伝えるのに大きいエネルギーがいると想像してしまいますが、液体だと考えると少ないエネルギーでも波の原理で遠くへ力が伝わります。できるだけ小さな力でエネルギーを伝えるには、通り道の確保ということになります。
足先からのエネルギーが頭に伝わるまでの間に有る障害物(ブロック)を、確認する作業から初め、それを取り除くワークへと入っていきます。通り道のサビ取りができたら押し返してくる波動の確認です。通り道になる人と、送り手となる人とが一体となり、一つの共鳴体として波動が同調したとき、バイブレーションの交感が始まります。

動きの方向

身体から無駄な力が抜け意識の集中ができると、相手の身体を通して相手の力や運動線がみえてきます。相手とからだの一部が触れあっていると、そのポイントを通じて相手の状態が解かります。背中に手を当てて背骨の言い分を聞いたり、お腹に手を当てて身体の言い分を感じたりします。

最小限の接触ポイントから、相手の動きを知るワークをやってみましょう。ここでも力を抜くということは重要なポイントです。それから「自分の思い込みを外す」ということが必要となってきます。“こう動くだろうなぁ”という予測ではなく、その時々自分の心と身体をニュートラルの状態において、一瞬一瞬に感じるということを大事にしてください。

呼吸の通り道

呼吸器というのは人体内で、自律神経器官に属しているにもかかわらず、唯一意識でコントロールできる器官です。何も考えなくても呼吸は止まることはありません。また呼吸を速くしたり、止めたりすることも自由にできます。上手にこの呼吸という行為を使いこなすことにより、心と身体、意識と無意識をコントロールすることも可能だということです。

腹式呼吸という呼吸は、お腹を膨らませたり、凹ませたりする呼吸です。腹式呼吸は通常息を吸うときにお腹を膨らませ、息を吐くときにお腹を凹ませます。腹式呼吸をいい替えれば横隔膜と腹筋の運動といえます。腹式呼吸を実行することにより、酸素が肺の隅々まで行きわたり、酸素の取り込み量が増えます。
またお腹を膨らませたり凹ませたりすることにより内臓のマッサージにもなり、腹部神経叢を刺激し、副交感神経優位の状態になります。つまり心と体がリラクセーションの状態に変化をし始めるのです。

 

■ほとんどすべての病気は、ふれあいの失敗によっておこる

 触覚はあらゆる感覚の母だといわれています。それというのも、母親の胎内で最初に形成される感覚は、皮膚全体が安らかに包まれている幸福な触感だからです。聴覚ができあがるのはもっと後で、視覚は外に生まれ出てしばらく経ってからです。生まれてからも、話したり書いたりする以前の時期は、触覚から受けとる情報が大半を占めています。
何であれ、つまんで口にもっていかないと気がすまない時期がしばらく続きます。無論もう聴覚も視覚も世界に対して開かれていますが、まず触覚によって概念を形成するのです。それから音によって、概念形成できるようになるとおしゃべりの時期に入り、さらに絵と文字の視覚優位期に入ります。
今日の教育にあっては視覚が偏重され、触覚の大切さはほとんど無視されています。原始的な、価値の低い感覚と暗黙のうちに見られているのです。なぜなら触覚の原点をなしている母胎感覚や、他人と身分や役割の秩序を通してでなく、皮膚でふれあってしまうことは、今日の能率社会、競争社会の拠って立つ原理にとって、したがって当然学校教育にとって、ぐわいの悪いものだからです。このことは、他人とふれあうことの下手なヨロイ人間を、大量に生み出してしまう結果になります。
こわばったヨロイ人間とはいっても、それは自分の自然なふれあいへの欲求を、頭で抑圧しているだけですから、それは自分で制御しがたい病を生んでいくことになります。この面から見れば、ほとんどすべての病気の原因はふれあいの失敗にある、といってもいいすぎではありません。人はおくるみにくるまった赤ん坊のように病人を演じ、束の間のふれあいを回復します。病気なのだから、ふだん甘えを許さない生活態度をとっていることと矛盾しません。
(別冊宝島「東洋体育の本」より抜粋転載)