「風に吹かれて」


『 内動 』 2004.3.27

 今日はとっても寒い、三月ももう終わりだというのに。体が春に向かって一歩ずつ変
化していくが、季節の変わり目は温度の日変化が激しいので体がビックリする事が多い。

 私の整体院は駅前のビルに有る。大阪市内の幹線道路に面している。両側に街路
樹と低木樹が植え込んである。葉の付いていないそれらの木々に「ふとっ」目を落とす
と、小さな芽吹きが寒さの中にも確実に春を運んで来ているようだ。でも近くまで行か
ないと、葉を落としてまだ冬の寒さの中に眠っているようにしか見えない。「内動」そん
な言葉がふと頭に浮かんんだ。

 例えば整体をする時もそうであるが、長い間にできてしまった癖や考え方が、動き始
めるまで長い時間がかかる。表からではまったく変化がない様に見えても、内側から
徐々に変化をして、ある日何かのきっかけで表に「ドバッ」と出てくる事もある。ぎっくり
腰などそうである。きっかけとなるのは結構些細な事が多い。西洋では「魔女の一突き」
というそうである。

 しかし体が完璧な状態ではぎっくり腰は起こらない。何らかの前駆症状として、色々あっ
たはずである。ただそれに気付かなかったか、あるいはうすうすは感じてはいたが、回
避できる状態でなかったという事がほとんどである。
 
 組織の中でもそんな事はある。それは会社であったり、家庭であったり。全体の統一
感がなくなり、構成している人達が思い思いの事を始めると、組織としての求心力がなく
なり、組織は崩壊し始める。もちろん崩壊した方がいい場合もある。スクラップ&ビルドで
ある。果物かごの中の腐ったリンゴは、まわりのリンゴまで腐らす。

 体にしても組織にしても、色々サインを発しているはずだ。そのサインを見落としてはい
けない。敢えて見えないふりをするのはなお更である。しかし、組織というのは、はなは
だ難しいものである。人は自分のことですら100%理解しているものではない。まして他人
が何人も集まったのが組織である。それぞれの利害や私利私欲、名誉など様々なものが
うごめく。

 「腐ったリンゴは切り捨てる」それが以前の私の考え方であった。今でも大筋ではそうで
ある。が、ただ見方を変えれば、100%の善も悪もない。組織を潰し逃げていくのは案外簡
単かもしれない。何も言わずに去っていくのは勇気がいることだ。私なら何か文句を言っ
て去っていくだろう。しかし、黙ってであろうが、文句を言ってであろうが、去っていくて事
よりも、残って再編していくことも必要な時がある。

 今の自分に何が出来るか解らないが、私は整体が好きだ。整体を安っぽいビジネスにす
りかえたくは無い。お金儲けを否定するのではない。(お金は沢山あったにこしたことはな
いと思う。)しかしお金が前に出ると整体が引っ込む。「整体何ぼのもんじゃ」という声が聞
こえてくるかもしれないが・・・。

 職業に上も下も無い。皆が「自分の職業はこれだ!」と胸を張れるようにしたい。後ろめた
い気持ちで仕事をしてはならない。誇りを持って仕事をしたい。皆なそうであろう。しかし時
々驚かされる事がある。鳥インフルエンザの隠ぺい事件そうだし、秘書給与不正事件、学
歴詐称などほんとうに幼稚な事件が後を絶たない。
 
 天に吐いた唾は自分に掛かるのである。もう一度襟を整え、知らぬ間に溜まっている埃
を払ってしまおう。身軽になって春を迎えようではないか。




『 ルール違反 』2004.2.13

 車には全然興味がなかったので、免許は持っていなかった、16年前独立する時に、
「必要かな」と思ったのと、まとまった時間が有ったので教習所に行って免許を取っ
た。まったく初めてだったので極端に言えば、ドアの開け方さえも分らなかった。
第一段階で一回落ちた。どの課程で落ちたのかもう覚えていない。その後は順調に
クリアした。

 確か第四段階の次の受験者と一緒に乗るテストの時だった。前の受講者のおばちゃ
んが教官に「もう5回も落ちてるんやから、そろそろ通してくれてもいいんちゃうん」
と言っていた。教官は無視をしていた。そんなおばちゃんが大阪には居る。私は「あ
かんから落ちてるんやろ」と思いながら同乗していた、案の定、今回もダメだった。
「○×○×・・」何か捨て台詞を残しておばちゃんは去っていった。あの後おばちゃ
んが免許を取れたかどうかは定かでない。

 私はといえば仮免の路上教習で貴重な体験をした。事故を起こしたのだ。というか
被害者である。教習車はご存知のように同乗する教官がブレーキを踏むことができる、
だから基本的に事故は無いはずである。もちろん意図的にすれば事故る事もありえる
が・・・。

 阪神高速高架下の三車線道路の真ん中を走っていた時、左車線の路上駐車の車が後
方確認しないで、発進し私の車の左後方ドアにぶつかったのである。走行中左の路上
駐車の車が発進をしようするのは確認できたが、何にも解らない私にとっては「ああ
ああっ」という間の出来事であった。その瞬間「わぁっ落ちた」と思ったのである。
しかしその事故に関しては先方が悪いということで、結局私にはお咎めがなかった。
(「距離的には走行車優先である。」とその人に教官が言っていた)

 そのことがトラウマとなった訳ではないが、免許取得後は出張施術に行くのに原付
に10年間ぐらい乗っていたが、車には2回しか乗っていない。一回目は免許を取って
すぐ親戚の家に行った時、近くの海の家の駐車場で50m程走った事と、もう一回は原
付でスピード違反や二段階右折違反で点数が6点たまったので、初心者教習を出身教
習所でおこなった時、原付の違反だったがその教習所には二輪教習がなかったので、
車のコースを走った。つまり公道は一回も走ったことがない。今は原付も廃車にした
ので、免許証は身分証明証の役目のみ果たしている。だから当然ゴールドカードだ。

 今考えれば原付も絶対必要であったかといえばそうではない。だからもったいない
買い物であった。しかし教習を受けたり原付に乗っていて、初めて判った事がある。
それは歩行者や自転車のマナーの悪さである。対人事故をすれば車が絶対悪いという
ことになる(ほとんどの場合)。しかし歩行者のマナー違反も良く見かける。特に原付
を乗っていて怖かったことは、無灯火の自転車が路肩を走っている時だ。原付だから
原則として左車線の路肩近くを走ることになる。そんな時、無灯火の自転車が見えな
い時がある。この事には「ヒャッ」とさせられた事が何回かあった。

 実際、車や原付に乗るまでは自転車の夜行灯は、自分が進む道を照らす物と思って
いた。もちろんそんな意味も有るが、車から言えば相手を認識する要素が多い。だか
ら車に乗らない人は、この事について言われないと分らないと思う。(まぁ、普段、
車に乗っていても自分が自転車に乗る時、夜行灯をつけない人もいると思うが) 教
習所でも "単車は昼間もライトオン" と教えられた。

 今は自転車に乗っていて思うのだが、やっぱり無灯火の人が多い。特に車のライト
を逆光で受けている時の無灯火は完全に見えない。こちらは電気をつけているから相
手には分っているはずだ、すると相手も自分は相手から認知されていると思うのだろ
う。危うくぶつかりそうになったこともある。「こっちからは見えないんだよ〜」と
叫びたい気持ちだ。

 なんなでもそうであるが「まぁ、自分は絶対大丈夫」と過信している人も多い。酒
気帯び運転はもちろん交通違反だが、今は道交法が改定されて同乗者も罰金になる。
止めなかったということは「認めた」ということになるのだろう。その時の状況で言
い出せないことも有るかもしれない。力関係とかで・・・。

 先日こんな話を聞いた。車の話とは違うのだが、整体師の新年会で、余興で事故が
起こったらしい。もちろん整体師だから腕に覚えのある人もいる。どれどれというこ
とで患部を見たら、これは「脱臼」だということで処置を始めたらしい。念のために
言っておくが整体師はまず診断ができない。そして処置(治療)もできない。新年会な
のでお酒も入っていたのだろう。回りもみんな整体師だったが、だれも止めないどこ
ろか勉強と取り囲んで見ていたそうだ。ただいくらかの心ある人は、それは「ダメだ」
と止めようと思った様だが、悲しいかな、その人が先輩であるとなかなか言えない力
関係がある。

 色々やったが結局ダメで最終的には、救急車で病院に行ったそうだ。さらに悪いこ
とは医師の診断(レントゲン)の結果は骨折だったそうである。二つ目のミスである。
「脱臼」の診断を出した時点で(この診断行為も違法だが)「脱臼」も診ることができ
ないので、すばやく「医療機関へ」と指示することの方がはるかに褒められた行為だ
し、順法だ。

 学院ではその辺りの事は、口をすっぱくして言っている。「整体は自分のために有
るのでは無く、常に相手の為にある」と。世の中にはこの辺りの事がなかなか解って
いない整体師が少なからずともいるようだ。だから整体師の地位が上がらないのだ。
法に則ってやっている整体師もいるのに悲しい限りである。交通ルールも整体のルー
ルも自分勝手な解釈で変えていくと、色々困った事が出てくる。それを自由と、はき
違えている輩もいる。

 今回はちょっと愚痴っぽくなったが今一番憤りを感じていることなのでお許しくだ
さい。



『 イメージ 』 2004.1.9

 年末におこなった「ホリスティックとは?代替療法家の視点から」という講演会
でイメージワークをした。私たちには「想像力」という素晴らしい力が備わってい
る。イメージには味覚、臭覚、聴覚、視覚、触覚の五つの種類がある。人によりそ
のイメージには得手不得手がある。たとえば目をつぶって頭の中で「海」をイメー
ジしてくださいと言われた時、想像でどんなイメージが出ますか。ビジュアルとし
て海を描ける人もいれば、波の音が聞こえる人もいる。また水や砂の感じが感触と
して出る人や、潮の香りがイメージできる人もいる。もちろん全てが一度に出る人
や、2、3種類組み合わせて出る人や、一つのイメージだけが出る人もいる。

 年末におこなったのは「レモンのワーク」というやつで私がよくするものである。
やり方はこうだ。まず最初に頭の中に白い画用紙を思い浮かべてもらう。ここでイ
メージができたかどうかを挙手してもらう事で確認をする。各セクション毎にこの
確認をする。この時は事前に目をつぶり呼吸法でリラックスを促しておく。

 次にこの画用紙を黄色の紙に誘導する、視覚イメージの色彩の確認である。次は
この黄色い紙を直径10cm位の大きさの円形に縮小する。それから、平面を球体へと
変化をさせていく。次はこの球体の両端をつまんでレモンの形へと誘導していく。
この後レモンの形から実際のレモンへと導き、手に取ってもらって質感(手触り)や
重さを確かめてもらう。

 この作業はイメージなのでもちろん現物のレモンは無い。あくまでも想像である。
次は鼻に近づけ匂いを感じてもらう。この辺りになってくると頭の中で想像だけし
ている人と、実
際レモンを持っていると仮定し、手を鼻に近づける人とに別れる。手を近づける人
は触性感覚の発達した人であろう。

 次はそのレモンをまな板に載せてザクッ≠ニ切ってもらう。聴覚のイメージで
ある。そしてその切ったレモンを鼻に近づける。この時さっきよりも明確に匂いが
するはずである。最初からこれをするよりも、匂いの判りにくい状況を先に体験し
ておくと後半のイメージが明確になる。
 
 「最後にそのレモンをガブリ≠ニかじって下さい。」で終了である。これでほ
とんど(9割り方)の人が口の中に唾液が出てくる。イメージでレモンを噛むだけで、
唾液が出るという生理作用を体験してもらうワークである。どうですか、貴方もイ
メージできましたか?

 普段整体の施術をする時クライアントのよくなった状態をイメージしながら施術
をする。「良くなれ」ではダメである。何故かと言うと「良くなれと思う時には、
まず良くない今があって、結果としての良い状態がイメージされる。まず頭に飛び
込んで来るのは、良くないイメージだからである。クライアントが楽しく暮らして

いる情景などをイメージするのがいいのではないだろうか。

 今年の高校ラグビーで母校K学園が優勝した。当時からラクビーは強かったが、大
阪代表になる程ではなかった。20年ぐらい前から全国大会に出るようになったと思
う。
ちょうど私がこの仕事を始めたころだった。最初に勤めていた、治療センターのス
タッフ控え室で何気なく見たテレビにK学園が大阪の決勝に出ているではないか。
そりゃもう驚いた。特に高校時代は思いでもなく何気なくすごしていたが、急に親
近感が持てた。別にラグビーをしていた訳でもないが、なんか妙に嬉しくなってき
た。それからはお正月の高校ラクビーには注目している。

 特に今年は3連覇がかかった試合である。決勝の後半戦の20分間ほどリアルタイム
で見ることができた。私は今までラクビーを興味を持って見てはいたが、あまり好
きなスポーツではなかった。何故なら、あと何センチという所まで行っても、相手

ディフェンスに阻まれ、飛び込んでも飛び込んでも捕まれ引き戻される、思う様に
進まない自分とオーバーラップしてその姿を見るのがつらかった。

 しかし今年は違った見方ができた。ラクビーは前へ(ゴール側)パスができない(ノッ
クオンという反則になる)。後ろへパスをしながら前へ走るのだ。そしてそれを繋い
で相手ゴールへトライ。ラクビーの監督は野球と違って、グランド内に入れないど
ころか観客席での応援である。つまり指示ができない。選手は一人一人自分の役割
を実に果たし、その場の状況を的確に判断して行動する。という命題を持ちながら
個々の足し算ではなく、その総和は別の大きなエネルギーを生み出す。ややこしい
話になったが、今年は気持ちよく見ることができたということである。

 今回の講演後初老のご婦人が私に駆け寄り声をかけてくれた「先生はお若く見え
ますが、おいくつですか?」と質問された。若く見えるということは喜ばしいことだ
か、治療業界では少し年配に見えた方が得な場合が多い。若く見えると頼りない感
じである。この事ではずいぶん悩んできたが、最近は実際の年もいってきたのでそ
んなに若く見られるということはない。「はぁ、47才ですが」と答えると、「そう
ですか、若く見えますわ」という話から始まった。

 このご婦人はこんなことを言ってくださいました。「今日の先生のイメージワー
ク、私は全然できませんでした。ただ最後の方に少しだけ"これがイメージかなっ"
という物がつかめました。と言われたので、私は「そうですね、誰でも得手不得手
と言うのが有りますから、あんまり気になされなくてもいいですよ」とフォローし
た。すると「私は難病で全身に痛みが走り、今日も来るのをどうしようかと迷って
いたのですが、今日は来て良かったです。ありがとうございました。」ぽかんとし
ている私にさらに「今日先生がイメージの大切ををお話されて、実際少しイメージ
の方法がわかった気がしたので、自分の病気を諦めずに前向きに考えていこうと思
うことができました。」と少し目を潤ませながらお話してくださいました。

 とても嬉しい評価をいただいたと同時に、言葉の力・イメージの力を再認識させ
ていただく出来事でした。スポーツにしろ日常の出来事にしろ、自分の体験や現状
に照らし合わせて、色々イメージしながら生きていくことになる。その時の気分や
状況によって同じ出来事でも、様々なイメージが喚起されてくる。『まず最初にイ
メージ有りき』である。間違ってバーチャルな世界と現実を混同して事件を起こす
こともある。しかし、イメージは私たちの力を増大されせてくれる原動力になる。
「念ずれば花開く」今年も目的に向かって進んでいこうと決意を新たに襟を正す今
日この頃でした。



『 アマチュア選手 』 2003.11.19

 クライアントとの話の中で「へぇ〜っ」と思ったことに、こんな事があった。その方は(30
代女性)テニスをしているということで、足のツッパリを訴えて来場された。学生時代は
バレーボールをしていたそうだ、働き出してからテニスを始められたそうである。

 最初は土日の週二回ぐらいで、多くてもプラス平日が一日のペースで始めたそうだ。
それが一年ほど前から、競技に出るという目標をもたれ、練習量を増やして、今年の
夏からは条件も整ったこともあり、週に5、6回のペースになってきたという。2週間ほ
ど前から「テニスをする時なんとなく足が出ない、突っ張る」ということで来場された。

 確かに練習のしすぎである、オーバーユースからくる「筋肉の損傷と疲労、および筋
肉の疲労から来る体のバランスの狂い」という見立てでバランス調整をさせていただき
ました。オーバーユースの場合はまず筋肉を休ませる事が第一条件です。しかしアス
リートの場合この休むという事が中々できないのである。一日休むと「皆に追い抜かれ
てしまうのはないか」という恐怖心がもたげてくる。そんなことはないし、休息を与えて
あげる方がパフォーマンスが上がるのであるが・・・。 

 アマチュアの選手は結構故障が多い。なぜなら、プロならトレーナーが付いてケアをし
てもらったり、治療所に通うことも自分への投資であり、仕事の一環としてみなされるの
だか、アマチュア選手の場合はそういうわけにはいかない。さらに競技で結果を残すに
は、しっかり練習が必要となる。そんなアマチュアの選手が何人か健康塾に通ってくれ
ている。フィジカルケアはもちろんであるが、食事やメンタルのケアもさせていただいて
いる。特にイメージトレーングは欠かせないものである。
 
 私自身が学生時代から運動をし、下手の横好きであるが今も現役で、年に数回試合
に出ているので、アスリートの気持ちは分かるつもりだ。私が気をつけていることは、競
技の前後のケアである。いわゆる準備運動と整備体操を念入りにやることだ。コンタクト
する競技だが、学生時代に大きな怪我はしなかった。もちろん打撲は日常茶飯事であっ
たが・・・。

 30歳を越えたころから怪我が多くなった。腓腹筋の筋肉の断裂、手の靭帯の断裂、さ
らに肋骨のヒビは数回した。ほんと弱くなった。もちろん練習量の低下は否めないのだ
か・・・。これらの怪我はほとんどどが子供との組み手のである、どこかで気を抜いてるの
だろう。それが証拠に大人同士の組み手や、上の人とする時は怪我をした事が無い。心
のどこかに隙ができているのだろう。恥ずかしいことである。

 話を元に戻すが、そのテニスをしているクライアントが「自分の楽しみでやっている時は、
ラリーをするのが面白いので、相手の打てる所へ球を打ち返すのだが、試合は打てない
所へ球を返す」と、こんなことを言われた。「へえっ〜」という感じだった。でも言われると
そうである。打てるところへ打ったり、打ち返せる球を打ったのでは勝てないのである。

 私はテニスを一度もした事が無い。時々テレビで四大大会などは見るが、クライアント
に言われるまではそんな視点で考えた事が無かった。自慢ではないがスキーも一回も
した事が無い。(スケートは学生時代少しはやりました)もちろん完璧ではないが、スキー
は身体運動としてイメージできるので、体の調整ポイントは考察できる。ダンスやバレー
などの回転系で球を使わない競技の場合は、重心の位置と身体の状態で的確に調整
できる。

 しかし球技はほとんどした事が無いので、クライアントにフォームを見せてもらって、機
能解剖の視点から考察して、バランス調整をするという二段階の方法になる。その方法で
かなりスポーツはイメージできると思っていたが、今回クライアントに教えてもらった事は、
球を打ち出すまでのフォームの改造(改良)、パフォーマンスの向上はできるが、「競技の
醍醐味は解からないなぁ」という思いがしてちょっと寂しかった。

 今、バレーボールのワールドカップが行われている、やっぱり見てしまう。何のスポーツ
でもトップクラスの技術には感動してしまう。しかし、アマチュアのアスリートも大好きであ
る。「生涯運動は続けていきたい」と心に誓うアマチュアのアスリートである。



『 トラウマ 』 2003.11.18

 以前新幹線の改札で日にちの違ったチケットを入れて、ピポピポッと何鳴ったこ
とを書いた。あれ以来駅の改札を通る時、結構ドキドキする小心者である。もちろ
ん同じ失敗は踏まないように、常に注意し確認作業は怠らない。が、しかし改札の
前に来るとちょっとビクビクする。

 今日は今年最後の出張講義で札幌に出かけた。チェックインの手続きをすると時
も、チケットを機械に入れたあと、次の画面が出てくるまでなんか心配である。今日
は無事OK!。それで今度は登場手続である、チケットを入れるとまたピホンピポン。
「うそ!ちゃんと確認したのに〜っ」。係りの人がチケットを確認して、ちょっとした曲が
りを伸ばして再度投入。無常にもまたピホンピポン。出てきた画面は『マニュアルに
切り替えます』手動の機械に入れて、手で「ガチャ」で、無事通過。その間心で「俺
は悪くない」をつぶやく。

 すっかり機械に翻弄される今日この頃である。そもそも機械は人間が快適に生活
をするためにできた物ではないか。しかしそれを、使いこなすまでにさまざまな関門が
ある。便利な機能を搭載している程、使用マニュアルが分厚くなる。まぁ私は機械が
好きだから苦痛は無い、むしろたくさん書いてあった方がワクワクする方である。しか
し取説をったく読まない人もいる。その中には感覚的に操作をする(できる)タイプと、
勝手に使って使い切れないタイプある。

 間違った使い方をしている人や、誤使用で製品の寿命を短くしてしまう人もいるよ
うだ。傍から見てたらひやひやする場面もある。人間の場合もそうである。もちろん
マニュアル通りに生活をするという愚を進めるわけでは無いが、体の使い方を間違っ
ている方によくお目にかかる。と言うよりこの体の使い方は、マニュアル通りにはい
かないということだ。

 様々な健康情報が世の中に氾濫している。テレビや雑誌で健康に関する知識が一
方通行に垂れ流されている。有効な情報も発信された後は、一人歩きをしてしまう。
間違ったままやってしまう人や、やり過ぎてしまうというパターンが結構多い。「10回
したら効果があったから、20回したらもっと効くのではないかと」考えるのは仕方ない
かもしれない。しかし何にでも適量というものがある。

 食に関してもこういう言い方をすることがある。『不足を補えば薬になり、適量食せば
栄養となり、取り過ぎれば毒になる』と。

 不安神経症と言う症状がある。たとえば家を出かける時、戸締りの確認をする。「き
ちんと掛かっている」安心。ここまではちょっとした心配性、よく言えば責任感の強い人
で終わる。病的になってくると、「ガスの元栓を締めたかな?とか玄関の鍵はきちんと掛
けたかな?」などと考え始めると限りなく不安が襲ってくると言う症状である。一回や二
回確認したぐらいではダメな様だ。それが病態である。
  
 もともと神経症と言うのも、弱い人間を守るための自己防御本能が、少し過剰反応し
たと考えればよい。高所恐怖症というのがある。高い所がダメというやつである。人間
は高いところから落ちると怪我をしたり、運が悪ければ死んでしまう。だから高いとこが
怖いと言う感覚は、本来備わった当たり前の感覚である。先端恐怖というのは尖った物
が、自分に向いていると怖いということであるが、これも刺さると危険だからである。しか
しそれが強すぎると日常生活に支障をきたす。1、2回ならまだしも。10、20回もとなると
病的である。

 私たち人間は本質的には弱いもの、自然の中に居れば無力なものである。その無力
な人間が万物の中で一番であり、全てを操作できるという錯覚が始まった時から、歯車
が狂い始めた。よく言う「自然治癒力」これも自然に受け取ることのできる環境にいれ
ば、必要な時に発動するものであろう。しかし機械に操作されている現代社会では、そ
れすら発動してくれない状態に陥ろうとしている。そう思う。

 いとうような理想を持ちながら、機械のピポンピポンにビクビクしているようでは、まさ
に機械に翻弄されているのは私ではなか・・・。と今回は自戒の弁でありました。



『 おばちゃん話 』 2003.10.15

 10月になってまた出張講義が多くなってきた。先日東京へ行く時の話である。新
大阪から新幹線に乗ろうと改札を通ろうとした時、すぐ左の改札でピンポンピンピ
ンと鳴るではないか。おばちゃんの切符が通らないのである。駅員さんがその切符
を見て「これは帰りの切符ですよ」とおばちゃんに言っていた。ここでおばちゃん
が一言「ああ、ほんまや。あははははっ、嫌やわぁ」。「嫌なのはこっちの方やで」
と思いながら、それを横目に私が切符を改札口に投入すると、こちらでもピンポン
ピンポンっと鳴ったのである。

 「えっ」と自分の切符を見ると「大阪〜東京」往路で間違いなかった。何がいけ
ないのか分からなかったが、よくよくチケットを見ると日付が違うのである。一瞬
目を疑った。「ぎぎえ゛ーっ。」目の前が真っ白になった。「どうしょう」時間は
迫ってるし、頭の中をいろいろな思いがぐるぐる駆け巡った。いつもは結構ぎりぎ
りに駅へ行くのであるが、幸い今日は20分ほど余裕がある、とにかく「緑の窓口」
へ急いだ。おばちゃんを笑えないのである。

 窓口へ行って事情を話した、なにせ6日も日にちが過ぎている。乗車券の有効期間
は4日であるとすげない返事であった。ちょっと懇願モードでお願いした。窓口の女
性は「少しお待ち下さい」と奥へ消えていった。言葉は丁寧だが面倒くさそうであ
る。しばらくして戻ってきた彼女は「同じ時間でいのですね」と尋ねた。「ひゃ〜っ、
ラッキー」なんとか出発できそう。で、差額とか請求されるのかな。と考えている
と、そうでもなさそうである。少し余裕が出たので、彼女に聞ていてみることにし
た。

 「どうなっているのですか?」すると彼女は「今、駅に問い合わせてるところです」
と言ってもう一度奥へ引っ込んで行った。戻ってきてからは説明も無しに発券して
くれた。そこでいろいろ考えたのだが、こちらのミスであれば差額や手数料が請求
されそうなものであるが、その様子も無いし、といって謝るわけでもないし、??? 
未だによく分からない始末である。

 とまぁ何とか予定時間に出発できて、めでたしめでたしであった。何故かその日
に限って早く出発して事なきを得たのである。がしかしそれからもやっぱりぎりぎ
りで、あわただしくしている今日この頃である。あの日は日頃の行いが良いから神
様に助けられたのかな? とまぁポジティヴに考えることにしょう。


 次の話はバスに乗った時の話である。座席は満員で立ってる人は動けないほどで
はないが、そこそこ混んでいる状態で私は立っていた。前の一人掛けイスに座って
いるおばちゃん(初老かな)同士の会話を、何気なく聞いていた時の話である。一人
が後ろを振り返る形で話をしていた。

 他愛ない話で後ろの席の人が「この間乗馬をした」と話したところ前の席の人が
「そやな何でも経験や、死ぬまでに色々経験しとかななぁ」っと。この話を聞いて、
そこそこの年齢の二人なので結構リアリティを感じた。

 しばらくこんな会話が続いた後に、窓の景色を見ながら後ろのおばちゃんが、こ
んなことを言い出した。「あっ、あれコスモスや、そやそやあんたとこもあれ植え
てるのと違うん?」すると前のおばちゃんが「うん、そやけどうちとこのん咲けへん」
と言ったら。後ろのおばちゃんが「あんたとこのん鉢植えやろ、あれは広いとこで
植えなあかんのやで。」と言ってた。

 私は、「そういえばコスモスはたいがい地植やなぁ」と考えていたところに、後
ろのおばちゃんの話がさらに続いた、その話の内容に度肝を抜かれた。と言えばオー
バーだがまさかここで、おばちゃんの会話でこんな話が飛び出すとは、予想だにも
していなかった。

 どんな話かというとおばちゃんはこんなことを言い出したのである。「コスモス
はな、広い空間が無かったら咲かんのや、そやかてコスモって言うのは宇宙やろ、
だからコスモスは宇宙に通じる花なんや。」と言い切るのである。まさかこんなと
ころでコスモロジーについて、講義か展開されるとは思いもしなかった。そしてそ
れを聞いていた前のおばちゃんも、「そやな」と相槌を打つのであった。恐るべし
おばちゃんパワー。妙に納得して頭を下げる(心の中で)私であった。



『 お婆ちゃんの知恵袋 』2003.10.5

 現代は核家族といわれて久しい、家にお婆ちゃんがいない家庭が多い。私の住ん
でいるところはお年寄りの多い区いうことで、老人福祉が結構充実している。昼間
外を歩くとお年寄りと出会うことが多い。

 先日ある健康関係の講座のテキスト編集会議に出た時の話だか、そこで「おばあ
ちゃんの知恵袋」みたいのはを載せようということになった。なぜか心に響くフレー
ズである。私たちの上には母親がおり、その母親にはまた母親(私からしたらお婆
ちゃん)がいる。家にお婆ちゃんがいるということは、とても大切なことである。

 人が存在していく上において「生老病死」というものは必ずついてまわるもので
ある。私達は生まれてくる時に死というものを必ず背負って生まれてくる。しかし
子供や若い人にはなかなかピンッとこないものである。もちろん私も学生時代など
には考えも及ばなかった。いつからだろうか考えるようになったのは、やっぱりこ
の仕事をするようになってからだろうか。

 子供の頃の私の家庭は、両親と妹達とで住んでいたので、家の中にお婆ちゃんは
いなかった。学生時代までに、回りのいくつかの死と直面したが、自分のものとし
て受け止めれる感性は残念ながらまだなかった。日本人女性の平均寿命が80歳を超
え、男性の寿命も80歳に近づこうとしている。単純にいうと私はもう折り返し点を、
とう越えていることになる。なかなか実感が湧かないがそれは事実である。

 家庭の中にお年寄りがいて、順繰りとしてお年寄りを看取っていくというのが自
然な形であり、死を身近なものとして感じることで、命の尊さを学ぶ。そういう仕
組みが本来の形としてあり、様々な事が先達の知恵として伝えられる。だから「お
婆ちゃんの知恵袋」なるものが存在する。

 おばあちゃんと一緒に暮らすというは、自然界で人間以外ではないそうだ。生物
のひとつの大きな使命というのは、次の世代へ生を繋げていくことだ。これはどの
生物もそうであるが、人間以外は、いわゆる雌が子供を産むとすぐ、または二、三
年のうちに(雌)母親は死んでいく。二世代(親子)までの同居、あるいは早い時期で
のひとり立ちが基本である。

 お婆ちゃんが居るということは、出産時の経験を語り継ぐことができる。この経
験則は出産というリスクの高い行動において、とても重要なことである。今でこそ
医学が発達して、知識として又、職業として出産が安全へと導かれる。しかし、大
昔医学そのものがなかった時代には、親と子が共に暮らし、母親が娘の出産に立会
い、その結果として三世代が一つ屋根の下に住むということが日常であった。経験
を伝えていくシステムがあったからこそ、人間が生き残り進化していったというこ
とである。

 もっともこの事は人間が言葉を使えるということが大前提である。抽象的な事を
頭でイメージでき、そしてそれを言葉で伝えることができることが大切である。「悲
しいとか、嬉しいとか、辛い」ということを感じることができ、言葉を使ってコミ
ニュケーションできて初めて共感できるのである。

 我々は未知の事に出会った時、不安をもつ。自我が芽生えてさまざまの事に出会
い、対応に苦慮する。特に思春期に体験する様々なことは、人生を左右すると感じ
るぐらい大きなことである。(後で振り返ると他愛のないことも結構多いが・・・)
特に他人との関わりあいで悩むことが多い。同性はもちろん異性との関わり合いが
出てくるから又、悩みが複雑になってくる。

 よく「あの人は何を考えてるか分からない」という言葉を聞く、まあ人の心はい
くつになっても、全て分かるものではないけれど。他者との関係で悩むことが多い。
そんな時は「分からない事が有るということが、分かっただけでもめっけもんだ
よ」ってアドバイスをする。

 「分かる事しかできない・しない」とか「見えるものしか信じない」というよう
になったら。本当にがんじがらめになってしまう。分からないから、分からないか
らこそやってみる価値があるものも有る。そして一つづつ体験して、失敗して傷つ
いて、覚えていく事がたくさんあるはずである。



『 広告 』 2003.9.17

 以前高校野球の話で今治西高のS君の事を書いたことがある。義足である事を忘
れさせるプレーで皆に勇気を与えたという話である。その後日談というか、私たちに
は知らされていなかったが、つい最近テレビで流れた事だ。

 ハンディキャップを持ちながらトップアスリートとして活躍することにより、マ
スコミに注目をされることが、彼にとっての日常とは違う状況を作ったということ
だ。

 マスコミは彼の快挙を伝えようとする。レポーターは自分の仕事をしているだけ
だが、インタビューに慣れていないS君にとっては、非日常のアクシデントであろう。
そこまでの配慮はマスコミにはなかった。

 高校野球に限らず、芸能界でもよく聞く話だ。それも含めての仕事だとも、いえ
ないではが、アマチュアスポーツである高校野球ではどうかということだ。しかし
伝える側と、知りたがる側が存在するのは事実である。お互いのニーズが一致する
ことには違いない。されど間にはさまれた当事者は大きな迷惑だろう。まして一生
に一度の晴れ舞台である全国大会ではなおさらである。

 私はもともと広告畑からこの仕事に転職した。といっても5年足らずの経験だが、
企画会社のデザイナーをしていた。デザイナーを辞めた理由は、ひとつは自分に才
能がないのに気づいたからだ。そしてもうひとつの理由が広告業界というものが、
嘘に彩られていたからである。とまぁこんな書き方をすればちょっとオーバーにな
るが、当たらずとも遠からずである。

 広告というのは「商品を売るために、その商品の良さを最大限にアピールして、
欠点をカバーすることである。」といっても過言ではない。ありのままを伝えるで
は広告にならないのである。もちろん嘘はダメだが、受け取った側の中で広がるイ
メージを巧みに使うと言うのは必要なことである。

 整体学院の授業の中に広告理論という課目がある。この時に一番最初に言うのは
「治った患者さんが一番の広告である」と。ちょっと失礼な言い方になるが、簡単
に言うとそういうことである。チラシや電話帳、最近ではインターネットで広告を
する事も手段としてあるが、「紹介」という、伝わり方が最高である。紹介でおみ
えになる方は最初から「治る気」で来られる。

 広告を見て来られる方は正直な話、半信半疑と言うのが本音だろう。広告に書か
れている内容に自分のイメージを重ねて来られるが、施術者とクライアントの人間
関係を構築するのに、時間がかかる。これがうまくいくと後の治療がスムーズになる。

 しかしこの紹介者と、紹介された人が同時に来られる時は、ちょっと話が別であ
る。初回の時チェックリストを作る際、第三者がいたら話が聞きにくい。又、言い
にくい時がある。ましてその紹介者が身内(親子など)の場合はなおさらである。
こんな時お母さん(だいたいお母さんが多い)にちょっと席を外していただく。この
辺(親)に問題があることが結構多い。

 登校拒否のカウンセリングをする時などは、本人はもちろんお母さんとも話をす
る。話というかお母さんのカウンセリングになる場合が多い。多くのケースでは原
因を外(他人)に転嫁することが多い、それも無意識のうちに。家族をひとつの単位
として関わりを持たないとなかなか解決しにくい。

 治療家もそうだ、顔色の悪そうな治療家の世話になりたくはないだろう。肥えて
いる施術家のダイエットコースは信用できないし、メガネをかけた視力回復センター
のスタッフも「まず自分の視力を回復せよ」って思ってしまう。

 「全ての治療家が健康で長生きか」というと、「生きていく」「健康」というこ
とに対して価値観の違いがあるので、一言では片付けられないが、なんかそこに行っ
たら「治りそう」というイメージが湧く方が良いのではないか。こうなると治療家
自身が一番の広告塔ともいえる。



『 後押し 』 2003.9.6

 夜中の12時ごろ南の空を見上げるとひときわ大きく輝く星が見える。ご存知火
星である。最接近は先月27日であったが、10月ごろまで肉眼でかなり大きく見
えるらしい。話題になるとにわか天文ファンになる。小学生のころ理科が好きだっ
たので、天体望遠鏡も買ってもらった記憶があり、月のクレーターを見たような
覚えがある。

 大学時代、高知県の甲浦というところでキャンプをした時、ほんとに降り注ぐよ
うな星を見た。あんな星は最近は見たことがない。冬の夜中に帰える時、南西
の空に輝くオリオン座は唯一わかる星座だ。とまぁ、星のうんちくはここまで。

 ちょっと遅くなったが、世界陸上の話題を、末續選手がやってくれました。短距
離(200m)銅メダル。毎回書くけどメダルにこだわるわけではない、しかしやっぱ
すごい。このエッセイでここ3回スポーツ話題が続くが、取り上げた3人(北島・鹿
島・末續)奇しくも23歳である。すご〜い。

 特に末續選手のゴール前は圧巻だった。日本人(アジア人)には無理と言われ
ていた、短距離走でのメダル奪取。最後の10mは本当に後ろから末續選手の背
中を誰かが押しているようだった。(きっと押してるに違いない)

 声援ほど、力にもなるし、またプレッシャーになるものもない。末續選手のインタ
ビューで彼は「たくさん練習をしてきたので、メダルを取るのを確信してました」と
いうコメントをしていた。確信は自信の上だろうか、とても力強いものを感じた。だ
からこそ声援が力になるのだろう。

 さっきテレビで、「RICO神島」という54歳のアカペラ歌手のドキュメントを放映し
ていた。彼女は子供のころから歌が上手く、プロの歌手を夢見て声楽科を出て、
実際プロ歌手として活動していた。しかし、「結婚をしたら家庭に専念する」という
ことで歌をやめたが、いろいろあって離婚し、その後がんばって3人の子供を育て
てきた。

 経済的には自分の稼ぎと、元夫からの仕送りとで、経済的にはゆとりがあった
ようだが、何か物足りないものを感じていた。そんな時たまたま入った喫茶店の、
たまたま隣に座った見ず知らずの人から「あなたは歌う人よ」と言われ、それで
心にあいていた穴がふさがる気がし、収入を捨てて歌の世界に戻ってきたそうだ。
今は自分の気に入る場所での手作りのコンサートをしている。「歌に生きること」
これが今の彼女の原動力になっている。

 テレビを通してだが、彼女の歌声を聞いて鳥肌が立つほどのインパクトを覚え
た。「上手い」という言葉では表現できない。なんかこう「凄い」そんな感じだ。人
にはそれぞれ色々な人生があり、その苦労(本人はどう思うかわからないけど)や
喜びがエネルギーとなって伝わるものがある。そしてそれは彼女の魂と肉体を通
して、聞く者の深い部分へ染みとおるのだろう。優しいだけの「癒し」ではない。
大地に引き込まれるような魂の叫びだ。けれど風貌は愛嬌のあるおばちゃん風
だ(失礼)。

 この夏活躍したアスリートの若い力強さとは又違うが、彼女には別の力強い魅
力があった。「人生に刻まれた重み」まぁ、そんな言葉でまとめられるのは不本意
かもしれないが・・・。一度チャンスがあったら是非聞いてみてください。母なる大
地への回帰となるでしょう。



『 季節感 』 2003.8.27

 今日は火星大接近の日。6万年ぶりだということだ。ネアンデルタール人と同じ思
いで火星を見ることができるそうだ。今年の夏は、暑いという感じが少ない。梅雨明
けが遅かったし、8月になっても真夏日が少なかった。これも火星接近のせいだろう
か?まぁ、本気では考えてないけど。
 
 7月の終わりごろ油蝉が急に鳴き始めた。いつも通る高校の塀ぎわの桜の木に止まっ
ているやつだ。春の訪れと、夏の訪れ、みんなこの桜で感じていた。狭い路地上の通
路はあたかも蝉の声のトンネルのようだった。

 大都会大阪でも季節を感じる生き物が、まだまだいっぱいだ。2、3日前カンカン照
りから急なにわか雨。ベランダに出てみると、雨に打たれて土の香りが。
もう秋かな・・・。
でも新聞によると残暑は厳しいらしい。だけど今年は中々当たらんからなぁ。これも
火星大接近のせい?。

 スポーツの話題を今回も一つ。今度は世界体操選手権での、鹿島選手だ。個人種目
別あん馬と鉄棒で2個の金メダル。金メダルだけが感動を呼ぶわけでもなく、微笑む人
の影には無念の涙を流す人もいる。でも金メダルはすごい結果だと素直に喜んでもい
いと思う。水泳の北島選手も鹿島選手も20代前半ちょうど私の半分の歳である。これ
からが楽しみな二人だ。

 私の二十歳代は何をしていたのだろう。「私の整体・カイロ独立開業・成功作戦」
という10月に出版される本に。寄稿する機会を得た。それで十代からずっと書き綴っ
てみたら、ちょうど22、3才の頃はこの世界に入るための準備をしていた。勿論彼ら
ほどではないが、私なりに結構充実していたように思う。

 今回体操競技で印象に残ったのが、テレビでの解説者のコメントだ。バルセロナ五
輪団体3位の西川氏のコメントだ。彼と鹿島選手は同じ体操クラブ出身で、10歳ぐら
いの違いだから、鹿島選手の子供のときの練習を見ていた。その時の印象のコメント
で「彼は小さいころから基本を徹底して繰り返していたから、今日の結果が出たので
しょう」というような内容だった。このコメントにはすごく好感が持てた。

 スポーツにおいても、整体においても基本は単調で、えてしてつまらなく思える。
空手を教えるときでも、整体を教えるときでも私はとにかく基本を徹底的に伝える。
空手の場合は体育会系だから割と強く言えるが、整体の場合は基本基本と言っても
中々理解してもらえない部分が有る。目先の技に逃げることがしばしばだ。2、3年経
つと段々基本の大切さがわかってくる。しっかり基本をやった人は底力があると思う。
(強く押せると言う意味では有りません。) 

 皆さん、壁にぶち当たったら基本に返りましょう。

 ベランダにたくさん植物が置いてある。春の芽生えと初夏の若葉のときが一番目
に愉しい。夏の管理で秋から冬にかけてのもちが違うようだ。日差しが強いばかり
が花が喜ぶわけではない。各植物での加減が難しい。人も同じだ。圧加減、調整場
所みんな違う。この応用技も全ては基本の上に成り立っている。努力がとても大切
だ。目に見えない部分での努力がきっと花を咲かせるだろう。しかし努力とは中々
目に付かないものである。表舞台にでる人の裏方として、影でサポートしてくれて
いる人たちの存在をも、しっかり見つめてあげよう。



『 原動力 』 2003.8.13

 今年は梅雨明けが遅かった。もう夏は来ないのかと思った。まぁ、そんなことは
無いが、7月の終わりになってもなかな温度が上がらなかったのでクライアントと
も「もう今年は夏来ないのかなぁ」と話をしていた。しかし8月になったとたん、
やっぱり夏が来た。
 
 今年も甲子園が始まった。春夏連覇や色々話題のある大会だが一番興味を持った
のが、今治西校のS君の話だ。彼は子供の時に足を失って義足ということだ、試合自
体は見る事はできなかったが、夜のニュースで走っている姿を少し見た。下腿部(膝
から下)の太さが少し外見的には違うが、言われなかったら解からないと思う。彼
の凄さは取り敢えず甲子園について来たというのでなく、今治西校という甲子園常
連校の中で、5割以上の打率をもってチームを引っ張ってきた原動力であるというこ
とだ。

 パラリンピックというのがある、ハンディキャップを持っている人のオリンピッ
クである。これはこれでまた過酷な戦いであるが、ハンディキャップを持ったもの
が、一般の人と戦って勝ち抜いていくことは、並々ならないことである。甲子園に
出場することは、高校球児の憧れである。各県のナンバーワンが代表として出てく
る。特に夏の大会はトーナメントだから判りやすい。勿論、野球は団体競技だから
仲間の支えもとても大事である。

 「全体はそれを構成する部分の総和より大きく、決して同じものではない」とい
う言葉がある。これはホリスティック医学を説明するときに良く使う言葉である。
チームプレーにはその要素がある。それぞれ個性や能力の違う者がお互いを補い、
また激励しチームを作り上げていく。「1+1=2」に非ず「3」にも「4」にもあるい
は「10」にも成りうるというこことだ。

 世界水泳の男子混合リレーにしても、何かが後押ししてくれているはずだ。誰に
もそんな時がある。それを自由に使いこなせたら素敵じゃないですか。

 この原動力はいったい何だろう。高校球児は当然みんな甲子園へ行きたいに違い
ない。努力もするだろう。けれど努力の途中で挫折する人もいる。何故だろう。運
を生かせる人、生かせない人がいる。何故だろう。努力が結果として現れない時は、
その努力はどうなるの?

 整体の学校で説明会する時、こられる方はのほとんどが転職組みになる。その方
々に向かって私が言うのは「あなたがやってきた事(仕事)は、整体に全部役に立つ
のですよ」すると「えっ、全然違う仕事なんですよ」と言われる。考え方である。
どんな仕事をするのしても一本通っている筋がある。その部分は色々な仕事や物事
の共通点のはずである。

 「富士山に登るのに登山口はたくさんあるのと同じです。まして人に関わる仕事
なのでクライアントもいろいろな方が居られるので、逆に言うと人生経験の長い方
が良いかもしれませんね」と言ってさしあげる。知らず知らずのうちに養われたも
のは、形を変えても出すことができるのだ。いや出るはずだ。自分が「フタ」をし
なければ。

 整体の様に手でやる技は、小さいころからから、お母さんの「肩たたき」等をし
ていた人にとっては、たやすく見えるようだ。最初はなめてかかっていた人も、上
級になってきた要求が難しくなると、頭ではわかっていても、体が動かなくなって
くる。皆そんな経験をして上手くなっていく。

 この時期に「まんが甲子園」というのも開催される。今年の最優秀賞は高崎東高
等学校という高校で、決勝戦のテーマは「オンリーワン」である。どんな作品かと
いうと、各時代の名画ヒロインが(ビーナスとかモナリザとか)が「ミス芸術コンテ
スト」ということで一堂に描かれている、そしてコメントが「みんないいところが
あるのよ」「選びきれなくて当然よね」と画面で締めくくっている。

 今年はスマップの「世界に一つだけの花」が大ヒットで、ナンバーワンよりオン
リーワンという気風なのだろう。「癒しの手」は貴方にとっての「オンリーワン」
でいいのだろう。その気持ちを感じたい。何をする時でも、見守ってくれる誰かが
いたら、頑張れる。



『 潜在能力 』 2003.8.3

 今週も世界水泳から。最終日400m混合リレーで日本は銅メダルを取った。この時
の北島選手のコメント「自分が金を取ることより、みんなで銅を取ることはまた違っ
た意味ですごい事だ」というようなコメントをしていた。水泳はもともと個人競技
で、本来は自己との戦いである。その中でリレー競技というのは特殊であるといえ
る。

 個人個人の能力が秀でている事はもちろん大切であるが、個々の力が一つの方向
を持ち、結集されていく素晴らしさを見た思いだ。特に北島選手は自分が世界新を
出した時よりも、速いラップで泳いだのでないかといわれていてる。

 人にはそれぞれ素晴らしい能力がある、まだ表に出ていないが、深い部分に眠っ
ているものもある。その力がどんなきっかけで出てくるか。しかしなかなか思うよ
うにも出てくれない。「今。出ろ」っといってもなかなか出ないものだ。その辺が
自由に扱えたら良いのに?でも自由ってかえって不自由かな?

 テレパシーを題材にした小説で、何もかも相手の考えていることが解ったとした
ら、結局最後は「疑心暗鬼になりかえって不自由である」というようなことが書い
てあった。ブラックボックスの部分がある方が、素敵だと思うけどうけど・・・。

 私たちの体は60兆個の細胞の集合体である。その細胞の一つ一つが「意思を持っ
ている」という説も有る。意思というか正確にいうと、DNAにインプットされていると
いう事になるのだが、時々暴走したり、団結して驚かしてくれる。火事場の馬鹿力
などもそうであろう。危機に遭遇した時、自分の普段の能力にかけられてある枷が
外れて、ものすごい力を出す。でもこれは本来備わっている力である。無い物は出
ないのである。そう考えると人間の潜在能力の大きさには目を見張るものがある。

 この力は危機回避だけでなく、別な時にも発揮されることが有る。冒頭のリレー
の例がそうだ。チームメイト、観客、故郷の家族や親戚、水永連盟関係者の、目に
見えないパワーが彼らを後押ししたのだろう。これは一つ間違えるとプレッシャー
になる。よく言われるように、「日本選手はメンタルの部分が弱いから、プレッ
シャーに負ける」又、反対に「最近の若者はプレーシャーを感じなくなったので、
大舞台で力が出せる」など。勿論これもいえると思うが、昔からプレッシャーを力
にできた人もいるし、今でもプレッシャーで押しつぶされる人もいる。

 今回水泳を見ていて感じるのだか、もっとも水泳だけではないだろうが、ハイテ
ク機器の導入。コンピューターによる解析である。力の量、角度、スピード、タイ
ミング等の最適値を出すことができる。これが今のスポーツ界の流れである。勿論
そのデーターを確実に実践し、表現するアスリートのパフォーマンスが、向上した
ことも抜きでは語れない。その総合力が今回の世界水泳の高成績だろう。

 今の西洋医学ではデーター至上主義になっている。「最近の医者は触診をするよ
りも検査数値を信頼する。」とよく年配のドクターは言う。これも時代のすう勢で仕
方ないと思う。特に日本人は「科学的」と言うのが好きな人達だ。今後の医学会が
どうなるのかは、未知数である。ただ物を伝えていくのに、基準や数値がはっきりし
ているのが便利なのは、医学界も学校教育も一緒だろう。

 手当ての原点が「痛むところに手を当てる」というのは、誰しも認めるところだ
ろう。整体をする時この「手」感覚がとても大事である。手から相手の情報をすべ
て感じる作業が必要となってくる。「硬い」とか「熱を持っている」「腫れている」
など表に表れた、状態を把握することは勿論だが、目に見えない微妙に変化を、
どう感じるかという世界になる。もう職人の世界である。

 整体師を目指す人がまず最初につまずくのが肩甲骨の位置だ。肩こりの要所であ
るこの肩甲骨は、人によって大きさ、形、位置がさまざまである上に、脂肪や筋肉
の付き方で、表からぜんぜん見えない(解らない)ようである。しかし何ヶ月か経っ
てくると、大体解るようになる。まず頭(目)で見つけようとすると、肋骨の凸に惑
わされる。指先の感覚を研ぎ澄ませることである。

 昔デザイナーの時に覚えた技術だが、指先で紙をつまみ少し擦って紙の種類、厚
み調べる。そんな感じである。これはデザイナーに限らずともどんな世界でもある
ことだ。お惣菜やさんが量り売りをする時、ほとんど一発で計量できる技術。人間
計量器である。整体師の指もこうであってほしい。

 整体の場合はこの触性感覚と、もう一つ大事なのが動きを感じる感覚だ。触性感
覚は皮膚の表面にある感覚受容器の役目であるが、動きを感じるセンサーは指の間
にある「虫様筋」の「筋紡錘」に負うところが大きい。この筋紡錘とは、筋肉の
「引っ張り」に対するセンサーのようなものである。指の微妙な動きを信号に変え
て脳へ伝えている。その情報を脳が記憶して、必要な時に引き出してくる、だから
技術は経験則である。

 職業やスポーツにより要求されるスキルは違う。しかし「技術は足し算。心は掛
け算」である。技術は一つ一つ積み重ねなければならない。歩みの速い遅いは有る
が、一つ一つ積み重ねていける。ちょっとサボっても足踏みか、引き算である。し
かし「心の力」は掛け算のように大きく飛躍する。だけど間違った使い方をすると、
マイナスの掛け算は絶対数にマイナスが付く。

 整体師の「心の力」はクライアントを思う心、優しさで育つことができる。もち
ろん他に「感動すること」や「瞑想する」あるいはすばらしい人と出会うことでも
養うこともできる。

 「今日は健康塾に予約をしている」と思った瞬間、クライアントの「気」が私の
許にやってくる。「気が動く」そんなセッションがしたい。時間や空間を越えるの
だ。それを健康塾では「気の整体」と呼ぶ。その時点で半分は整体が済んでいる。
あとは来て頂いた時に、仕上げである。   でも、「半分でいいや」という人増
えて、クライアントがこなくなっても困るな・・・。


『 自信 』2003.7.25

 今、「世界水泳バルセロナ2003」を見ている。日本選手が頑張っている、メダル
ラッシュである。こんなところでナショナリズムを出すつもりは無いが、やっぱり
「日本頑張れ!」と応援してしまう。「日の丸」が揚がって「君が代」が流れると
目頭が熱くなる。

 ずっと武道をやっているせいか、チームプレーより個人競技に興味を持っている。
水泳もつい見てしまうし、陸上も好きだ。マラソンも見始めるとずっ〜と見てしま
う。

 スポーツと言えば今、阪神が猛烈に強い。私は特に何処のファンでもなく、その
時々の状況で楽しんでる。今は毎日阪神タイガースの結果を見るのが、日課になっ
ている。サッカーにしても夜中にやっていたフランスワールドカップも、結局ほと
んど見ていた。なんか今スポーツが熱い。

 今回世界水泳で気になったことが一つある。解説と実況の盛り上がり方だ。これ
の是非は各自の判断に任すが、私はあんまり好きではない。レース前に色々な情報
を提供してくれるのはありがたいが、レース中の過度の形容詞を使った実況はいた
だけない。勿論あの実況によって、レースをとても面白く見ている方も、居られる
とは思う。でも私は「ちょっと」である。

 昔、ラジオの時代では競技の状態が、聴取者には見えないので、細かい描写も必
要だと思う。しかしテレビはリアルタイムで見ている、それに対して過度の形容詞
は不必要ではないかと思う。たとえば「一人水力発電」とか「浪速のど根性娘」と
か。アスリートに対するイメージは、各個人が持てばいいもので、それをテレビと
いう強力なメディアで連呼されるのはしんどい。

 テレビ局も大会全体を盛り上げようと、頑張っていると思うが「ちょっと路線が
違うのではないか」と思うのは私だけだろうか。特にスタジオの解説者に選ばれて
いる(元)アスリートたちが、叫び声を上げているのは止めてほしいと思う。会場の
応援者が競技場の「場」を共有して、盛り上がるのは大いに結構だと思うし、楽し
めばいいと思う。

 会場でなくても家族や友達が、集まって歓声を上げるのはOKである。しかしその
一つの楽しみ方を、テレビで一方的に見せつけられるのは嫌である。「このラーメ
ン美味しいから食べてみろよ」と言って口に押し込まれている感じがする。

 人はみな違う感覚を持っているし、信条や考え方も違う。だから私はこの押し付
けが一番嫌いだ。人と同じと言うことに抵抗感を感じる。今の若い人は周りと違う
と不安になるとよく言われる、ファッションにしても考え方にしても「人と違う」
ということが苦手らしい。スポーツの楽しみ方まで、お膳立てが必要になったのだ
ろうか・・・。

 仕事柄アスリートの身体に目が行ってしまう。鍛えられた筋肉の素晴らしさは勿
論だか、トップアスリートは顔の歪みが少ない。「身体の歪みイコール病気」とい
う公式は持っていないが、結局トップアスリートになるには、努力も精神力も必要
だが持って生まれた、バランスの良い身体というのも必要な気がする。

 健康塾のクライアントにも、プロの競技者やアマチュアの競技選手もいる。特に
回転軸を必要とする競技(野球・ゴルフ・ダンス・武道)などは、修軸調整をすると
パフォーマンスが上がる。やっぱり身体の歪みを修正する事は大切である。その究
極がトップアスリートの身体なのだろう。

 アスリートの歪みはオーバーユースに由来するものも多いが、メンタルな部分か
らの歪みも結構ある。今回の世界水泳で競技後に、日本人選手のインタビューをし
てくれている。みんな若いがしっかりした答えをしている。やっぱりオーラが出て
ると思う。

 よく「自信」が有るとか、無いとか言う。これは世界大会でなくても、学校の運
動会やテストなどでも使う言葉である。私はこの使い方は間違ってると思う。自信
と言うのは「自分を信じる」ということであるから、「持つ」と言うのが正しい使
い方ではないかと考えている。「有る、無い」というのは受動的で、何か与えられ
るものを待っているイメージがする。「持つ、持たない」は能動的で、自分の歩ん
できた道へのエールだと思う。

 平泳ぎ100m・200mの両種目で世界新と金メダルを取った、北島選手がインタビュー
で「自分を信じる。やってきた練習を信じてる」と言うコメントをした。これはなか
なか言えない事である。そして結果を出した。

「北島選手ガンバレ! 日本ガンバレ!」って思わず叫んでしまった。(心の中で)

 ただし一等賞になった人が偉く、ビリがダメと言っているのではない。人それぞ
れ得意分野がある。自分を生かせる分野に出逢えた(見つけられた)人は幸せだ。

 今、小学校では運動会で順位をつけないところが増えている。私たちの子供の頃
は一等、二等・・・と賞品が出た。今は順位をつけるとダメだそうだ。でも「勉強
は苦手でも走るのは得意」という人がいてもいいと思う。各個人の資質を100%生か
す教育は、どうやらされていないみたいである。画一的な基準で評価したほうが都
合がいいのだろう。運動会で順位をつけることはダメといいながら、勉強では偏差
値で人を判断している。これは矛盾ではないだろうか。

 私は小・中学校の時、走るのが遅く徒競走はほとんどビリだった。中学校の時、
障害物競走で一回だけ、二等賞を取ったことがある。スタート時点ではビリであっ
たが、マットや網くぐりで、後から走って行ったので隙間が空いていて、何故か勝
ててしまった。自分でも不思議だった。

 それからその事がきっかけで「全てに自信を持つ事ができるようになって、前向
きに生きていけるようになった」と言えばカッコいいが、それだけで人生が変わる
ほど甘くは無かった。



『 前兆 』 2003.7.16

 先週は東京での講義が二日続けて有った。泊まりの出張で、自由になる時間が結
構できた。一日目は午前の授業だったから午後から時間が空いたので、「相田みつ
おミュージアム」へ出かけた。その後ホリスティック医学協会に行って少し打ち合
わせをした。

 二日目は午後から授業なのでそれまで映画を見ることにした。気分的には「マト
リックス・リローデット」だったが、そこの映画館ではやっていなかった。映
画館がたくさんある場所だから、少し歩けば上映館があるはずだが、なんせ荷物が
重たかった。PCと資料そしてお泊りセットでカバンがパンパンになっていた。

 で、結局見た映画は「デッドコースター」という映画だった。これはTVで宣伝を
していたのでちょっと興味があった。前を走っているトレーラーから、積荷である
木材が後続車に突き刺さるというやつだ。その他残酷で、思わず目をそむけたくな
るシーンがたくさんあった。実際この映画を見たことを後悔した。妥協しないで見
たいものを見ればよかったと。

 ここで映画の評をするつもりは無いが、なんとなく後味の悪い映画だった。勿論
見る人にとっては面白いと感じる人もいると思う。が私はちょっとであった。映画
の中でいろいろ事件が起こる時、次の場面への布石がいろいろ配してある。それを
探していくと結構面白かった。この主人公は予知夢という形でメッセージを受け取
るのだ。それに気づくと「災難を避けることができますよ」ということである。

 私たちは日常生活をする中で様々なことに遭遇する。その身の回りに起こる事を
「どのように受け取ればよいか」という事を考えさせられる映画である。出かける
前に靴の紐が切れたら縁起が悪いとか、色々有ると思う。虫の知らせなんかもその
一種である。自分の周りに起こる事(現象)をどう受け止めるかということだ。

 クライアントによく言う言葉に「自分で感じることは、全部当たりですよ」とい
うのがある。どういう意味かというと、「このごろ食べ過ぎてるなぁ」とか「最近
遊びすぎだなぁ」など自分が思うことは「全部正解でしょう」ということである。
自分では確かにわかっているはずでも、頭の考えと身体の訴えが一致しないことが
有る。その不協和音が身体のバランスを崩すといっても過言ではないだろう。

 「コリや痛みは身体の中からのメッセージ」とよく話しをするが、自分の中から
発せられるメッセージを無視する人の多いこと。いゃ、無視というよりは解ってな
い人が多いのかな?自分の声に素直に従えば元気で過ごせるのに・・・。

 自分の身体のこと以外、周りの出来事にも気を配れば、色々なことが見えてくる。
以前あるクライアントに聞いた話だが、彼女は看護婦で阪神大震災の時に、ポート
アイランドの中に在る病院に勤めていた。私の開催していたセミナーに参加してく
れた後、クライアントとして施術を受けに来ていた。

 ある時、話しの中で私が「病気で死ぬのは自業自得で、受け入れていかないとあ
かんけど、事故で死ぬのは悔しいなぁ」といった時、彼女は「事故も自分が呼ぶ」
と言っていた。そして何回も同じ状態で事故を起こして、病院に運ばれる少年の話
しをしてくれた。彼は半年とあけない状態で、3回もバイク事故を起こして運ばれて
きたそうだ。少年と話をしているうちに、「こんな状態を続けていては事故っても
しょうがないなぁ」と
思ったそうだ。

 誰も自ら事故を招くものはいない。しかし自分の習慣はなかなか変えることがで
きない。食習慣などその典型的なパターンだろう。彼の場合その「カッ」となりや
性格や、人とすぐ対立する性格が事故を招くようだ。何かきっかけがあれば、気づ
くことができただろうに・・・。

 周り(第三者)からは良く見える。でも当事者となるとなかなか見えない。だから
助言に耳を傾けることができない。

 病気にしても事故にしても、自分を取り巻く環境も含めて変えなくては何も変わ
らない。変えていく対象が目に見えるものだけでなく、見えないものにも気づきを
持とう。いや、見えないものにこそ最大限の注意を払うべきではないか。
 


『 熱帯魚 』 2003.7.8

 私は2、3年前から趣味で熱帯魚を飼っている。事務所でも小さい水槽を置いてい
る。整体の合間に眺めて心が癒されるのを感じてる。ほんと、観ていたらあっとい
う間に時間が過ぎてしまう。数種類がところ狭く泳ぎ回っている様子は、ちょっと
人間のエゴかな?と反省しつつ眺めている。

 「みんな仲良く同居している」っと、書きたいところだが、先日新人(新魚)の引
越しを済ませた時の出来事だ、ハプニングが起こったのは。新しい住人は「トラン
スルーセント・グラスキャット」いう熱帯魚で、この魚はナマズの仲間だが、なん
と体が透き通っているのだ。この魚は家でも飼っていて、混泳させているので。ぜ
ひ事務所でもと思い買ってきた。

 このグラスキャットは大きくなると10センチぐらいになるので、一番小さいのを
買ってきた。2.5センチぐらいのやつである。これならみんなの邪魔をすることもな
いだろうと思い、水合わせをして水槽に放した。

 「新人(新魚)ですよろしく」って言う感じで、私が挨拶をなぜかしたくなる気分で
あった。元気で巣立っていく教え子を見ていく気持ちだった。が、「変・・」なん
か家とは違う風景が展開されてしまったのだ。

 回りの魚がグラスキャットを追い掛け回しているではないか。「うわぁっ」とい
う気持ちだが「まぁ、大丈夫だろう」と仕事にかかって一時間ほどしてみて見たら、
やっぱりまだ、追い掛け回しているではないか・・・。なんか嫌な予感がしたが、
「大丈夫」と自分に言い聞かせながら。その思いをすぐに払拭させた。しかし良く見
ると一匹の背びれの辺りに小さい白い点があった。「白点病?」

 残念ながら次の施術の時間がきたのでその場を離れて、2時間後に見てみると一
匹がどうしても見つからない。よぉ〜く見てみると、なんと水流に合わせてプカプカ
浮かんでいるではないか。そうですかわいそうに、どうやらかじり殺されてしまったの
だ。「あぁっ」と思ったが、また次の施術の時間がきたのでその場を離れた。

 結局帰りに見てみると跡形もなくなっていました。ほんと可愛そうな事をした。その
日はそのまま帰り、翌朝水槽をのぞくと、グラスキャトが一匹しかいない。ううんっ、そ
うなんです夜中のうちに、もう一匹も食べられていたようだ。

 今週はこんな残酷な話となりましたが、それも自然の摂理。「弱肉強食も仕方な
いかなぁ!じゃんじゃん」で終わり。じゃないですよ。

 この熱帯魚の関連話なんですが、以前は気がつかなかった事だが、最近一つ、気
になるフレーズが有る。耳に心地よく残る言い回しである。それはグラスキャット
を買いに行った時の話であった。

 熱帯魚屋さんの店員さんの、熱帯魚に対する呼び方である。熱帯魚に対して「こ
の子」と言うのだった。若い女性の店員さんだったからかなと思ったが、又別の日
に男性の店員さんも使っているのを聞いた。これは業界の慣例なのだろうか?でも
とても耳に心地よく馴染んでくる。ペットに対して、愛情一杯という感じがする。

 整体をする時クライアントに対して、「命のある人間である」ということを忘れ
ないようにと、常々、口やかましく言っている。勿論人を対象とした職業と、みん
な認知している。しかし時々、腕や足の調整をする時に、「がばっ」と手や足を掴
んでしまう人がいる。落としては大変と力を入れてしっかりと掴んでくれる。これ
が痛いのである。優しく下から支えてくれれば良いのだか、掴んでしまうのだ。

 特に手で何かを「持つ・掴む」という仕事をしていた人に多い。大事なお得意様
の「物」を、落としてはならないという事で、しっかり掴んでしまうのだと思う。
でも「人」は「物」ではない。だけど染み付いた習慣はいざという時に出てしまう
ようだ。

 熱帯魚屋さんの「この子」という響きは、とても耳に心地よい習慣だが、整体師の
「掴む」習慣はいただけない。人と係わる仕事をする場合は、常に相手の立場になっ
て行動してほしい。本来は「体と心」に心地好い係わり合い方ができる仕事である。
「見える体」を通して「見えない心」を、そっと優しく包み込んでほしいものである。



『 汗 』 2003.6.30

 身土不二(しんどふじ)という言葉をご存知だろうか?これは「その人の生まれた土
地(地域)で、とれた食べ物を食べたほうがいい」という意味である。食養でよく
使う言葉である。たとえば熱帯地方で取れる食べ物は、身体を冷やす働きを持って
いる。だから熱帯地方の人が食べると、上手く身体のバランスが取れるという仕組
みである。逆に私たち温帯地方で生活をしている者が、南国で取れる果物などを多
くとりすぎると、身体を冷やしてしまう原因となる。

 また地域のことだけに限らず、季節についても当てはめている。野菜や果物には
「旬」というものがあり、夏に取れる食べ物は身体を冷やす性質があり、冬に取れ
る食べ物は身体を温める性質を持っている。

 現代は夏になれば何処にいてもクーラーの恩恵(迷惑)を受けられる。自分で意識
的にスイッチをオフしなければすっかり冷え切ってしまう。確かに暑い盛りに飛び
込んだ列車にクーラーが効いていると極楽である。しかし10分も乗っていると寒く
感じる。私は上から羽織るものを一枚余分に持って対処している。

 日本には古来より暑い盛りに涼を得る風物(工夫)が色々ある。カキ氷やスイカ等
食べると体が喜ぶはずである。確かにクーラーのない時代であれば、暑い夏に体を
冷やす食べ物を食べるということは、バランスを取るのに適している。しかし現在
は何処へ行ってもクーラーで快適に調整されている。

 自然の暑さと自然の涼この組み合わせが良いのだが、快適に調整された部屋の中
では、体を食べ物で冷やす工夫は要らない。せめてカキ氷を食べる時はクーラーを
消して汗をかきながら「ヒャッ」と食べたいものである。

 私たちの体の中にはホメオスタシス(恒常性維持機能)というすばらしい、バラン
ス調整システムがある。ただこの機能も自然の中で働くものであり、人工的に作ら
れた環境では、十分に機能しなくなってきている。例えば今の赤ちゃんは生まれた
時からクーラーの中で暮らし、汗をかくということが少ない。だから汗腺の発達が
悪いようである。2歳ごろまでにしっかりと汗腺を発達させる必要がある。

 汗腺にはアポクリン腺とエクリン腺という2種類があり、エクリン腺は暑いとき
に、体温を調節するために汗かくので、能動汗腺ともいわれる。 同じ環境で育って
もスポーツ等をするかしないかで、この能動汗腺の能力が違ってくる。

 汗がかけないと、どういうことになるかというと、ホルモンのバランスが狂った
り、自律神経の調整不良がおこってくる。冷房病などといわれているものがそうで
ある。積極的に運動をしたり、半身浴などで正しく汗をかける機能を改善してはい
かがだろうか。

 今は昔のように食べ物で季節を感じることが少なくなった。何でもいつで手に入
る。しかし季節はずれの人工物は本来の力を宿していない。なんにでも「旬」とい
うものがある。整体で体の調整をするときもこの「旬」という感覚が大切である。
まぁ「旬」とは表現しないが、「間」や「呼吸」を大切にする。

 「ぐーっ」と押していく時でも、「どこまで押すの」とよく生徒さんに聞かれる。
「ううーんっ、体がもういいよ」と言うまでだよ。と答えるがこれは大変わかりに
くい。「体がしゃべるか」と突っ込まれそうだが、感覚的にはまさにそんな感じで
ある。押すタイミングに関してもクライアントの呼吸に合わす。正確に言うと無意
識のうちに二人で合わす。これが私が整体はセッションだという理由である。まさ
に「息が合う」という感じだ。

 整体にしても食べ物にしても、この「旬」(タイミング)を逃したらうまくいかな
い。

 心を落ち着けて、「すうーっ」と息を吐く、指先に感じる微妙な感じを頼りに、
圧の強さ、角度、方向を決める。「ぴたっ」と感じる瞬間がある。この時の一体感
は絶妙である。

 凡夫にとってはまだまだ名人への道のりは遠いが、一つ一つ感覚を磨いていきた
いものだ。汗と涙の数だけ素敵になれる。そんな愛と感動のスポ根物語の世界であ
る・・・。

 どうです「ぞくっ」鳥肌が立ちましたか?。「さむ〜」と感じていただければ、
今週は成功です。まだまだクーラーは早いですぞ。

こんな文章を書いてる私は冷や汗物ですが・・・。


『 2倍速 』 2003.6.23

 6月25日で独立開業して丸15年になる。独立前に5年ほど治療院に勤めていたので、
プロということでこの仕事を初めて20年になる。色々な事があったが、業界で一番
変化したのは「クイックマッサージ」と呼ばれる物の出現である。その是非を問う
つもりはないがあれは画期的なものだ。

 従来あんまマッサージ等は、お年寄りの方が行くというイメージがあったのでは
ないだろうか。それを刷新し若い働く女性を動かしたというのはすごいと思う。た
だ実際この仕事に入ってわかったことは、クイックマッサージができる前から
も、若い女性の方が結構治療には来られていたということだ。

 現在私のところの整体院も女性:男性の比率は8:2で、平均年齢は35歳くらいであ
る。意外と思われるも知れないがお年寄りが少ない。健康塾では65歳以上の来院者
は3%ぐらいだ。これは保険が利かないからであろう。それと美容整体というジャン
ルを開発しているからどちらかというと20歳代の女性が多い。

 先日夕方のラッシュ時に御堂筋線に乗ることがあった。この日は異業種交流会の
講師として梅田に出かけた。梅田までは20分ほどであるが、さすが大阪の最大の動
脈「御堂筋線」混んでいた。この時間帯の地下鉄にはめったに乗ることはない。途
中、難波駅から70歳ぐらいの杖を突いたおばあちゃんが乗って来られた。私の方に
進んできたので席を譲ろうと立ち上がった。

 最近はよく席を譲る。以前はなかなか席を譲るという行為ができなかった。自分
の前に立たれたら譲ってあげたいと思ったが、どうも人に声をかけるのが苦手なの
である。知らない人とコミュニケーションをとるのが下手くそだった。声をかける
のが恥ずかしいのである。今では講師という肩書きで全国を回って、数時間でも平
気でしゃべっている。がやっぱり一対一は苦手である。

 周りの目がとても気になる。席を譲ったりしたら「かっこつけてる」と思われや
しないかとか考えていた。誰もそんな風には思わない(はずである)。結局私が一番
そんなことを思っていたのかもしれない。これを心理学では「投影」という。

 今は平気で、必要であれば席をお譲りすることができる。この日もそういう気持
ちでお譲りしたのだが、その時はちょっと状況が違っていた。満員電車だったので、
私の前まで来るのにちょっと手間取った。降りる人に少し押し戻されるという形に
なった。

 最初おばあちゃんと目が合った時、「さぁ、どうぞ」という感じで席を立った。
おばあちゃんも歩みだした。けれどなかなか前へ進めない。その時「果たしてこれ
はおばあちゃんにとって良いことなのかなぁ」考えた。私の思いとおばあちゃんの
思いは一致していた。ただ回りの状況が後押しくれていないのだ。

 以前、上りのエスカレーターと階段が有るところでこんな光景があった。健康の
ためだろうか階段を二段跳びでかけ上がっていく中年男性。これはいいことだと思
う。が朝のラッシュ時だった。その時間帯は暗黙の了解として上に行く人は、エス
カレーターを利用し、降りる人は階段を利用するようになっていた。その男性は押し
寄せてくる人並みに逆らって、元気に階段を駆け上がっていくのだった。これも迷
惑だろう。本人は健康のため意志を曲げたくないのかもしれないが、周りとの協調
性に欠ける例である。

 真実が必ずしも正しい行動だということは言えない場合がある。整体をする時に
思うのだが、みんな真直ぐな身体にこだわりすぎる。もちろん歪みのない身体にこ
したことはないが、それが全てではないだろう。それに歪みを作ることによって保
たれるバランスというものも有る。さらに私たちの身体は日々変化している。いや、
一瞬一瞬変化している。そして微妙にバランスを取っている。身体も心も。

 周りにとらわれることなく、かつ自分の感覚(感性)を大切にし、その場に応じた
判断が下せればいいなぁと思う。20年経ってもまだ駆け出しである。結構人に逆らっ
て走り出したりしている。2倍速で・・・。



『 言葉の力 』 2003.6.9

 中学生時代からずっと運動をしている。中学の時は「柔道一直線」というドラマ
が流行っていたのと、叔父が柔道をしていたので柔道を始めた。その頃は体重別に
分かれていなかったので、自分の倍以上の体重の人とも段取りをするので「なかな
か勝てない」というか潰されてしまう。そこで高校に入ったら体重制の有るのレス
リングをしようと思い、レスリングの強い公立高校を受験した。すっかり入部する
つもりでクラブ紹介のアンケートまで入部希望と書いた。この時ちょうど「アニマ
ル1」というレスリングのアニメが流行っていた。が、高校の方から断られた(受験
失敗)。

 滑り止めの私立高校へ入学した。ここはあまり武道は盛んではなかった。ラグビー
が当時も強かったが、今は全国大会で優勝するほど強い学校になっている。ちょう
どその時、流行っていたのが、「ブルース・リー」だった。なかなかカンフーを教
えてくれるところはないので、近所の道場で空手を始めた。道場といっても神社の
境内を借りての練習である。土の上で裸足で練習とい具合である。練習よりも理屈
が好きでよく本を読んだ。「経穴」とか「急所」とかの本を読み始めた。

 その時はやっていたアニメが「空手バカ一代」という漫画で、その主人公が唯一
負けたのが香港の陳老師という設定になっていた。その陳老師のつかう「陳式太極
拳」に興味を覚えたのが、今の仕事をするきっかけになっている。太極拳の本はま
だほとんどなかったので、気功の本を探してきてはよく読んだ。

 その本の中で見つけた「裸足の医者」という医療システムにとても興味を覚えた。
これは、1960年代毛沢東の時代に、中国は国土も広く人口も多いので、それぞれの
村に少し医療に詳しい人がまず治療に当たり、それでダメなら中央の病院へ紹介す
るというシステム。ちょっとうる覚えであるが、だいたいこんな感じだったと思う。
中国では上工(名医)は未病を治すと言われているそうだ。養生(未病医学)の方が病
気になってから治すより、大事であるという考えが東洋医学にはある。薬膳という
のもその辺りからきている。

 この未病と対極にあるのが「ドクハラ(ドクターハラスメント)」だろう。患者を
傷つける医師の一言である。高校時代から始めた空手は現在も趣味として続けてい
る。今は週に一度子供たちと一緒に汗を流す程度である。学生時代は結構しっかり
やっていた(自分の中では)。骨折や捻挫、肉離れもたいがい経験した。大学時代、
膝の故障で診てもらった整形外科医に言われたことだが、「このままスポーツを続
けたら歩けなくなる」この一言でかなり長い間悩んだ。

 しかし、当時はかなり封建的な時代だったので(クラブが)、医者の診断を先輩に
伝えても「はいはい、わかったから着替えて来い」と言われて、まともに取り合っ
てもらえなかった。それで結局練習も続けた(続けさせられた)。ドクターにはドク
ターの考えが有り、患者に適切なアドバイスをしてくれているのだろう。しかしこ
の症状ではこうするべきだと、通り一遍な指導しかしてもらえなかった。幸い先輩
の適切な?指導のおかけで今も練習もでき、歩けてもいる。

 私のクライアントの中にも、ドクターの一言に翻弄されている方が多い。やっぱ
りドクターの一言は効く。しかし整体師の言葉に踊らされている方もいる。整体の
学校では経営論と称して「骨盤や背骨の歪みをほったらかしにしておいたら将来、
病気になる」、「歩けなくなる」とか、恐怖を植え付ける言葉を使って、クライア
ントを獲得する方法を平気で教えているところがある。なんとも悲しいことだ。「○
○が治らなかったら□□は治らない」というように。これもドクハラ(整ハラ?)の
一種である。「○○が治ったら□□も治る」と言い替えれば良いものを・・・。

 今の医療は病気を診て人を見ないと言われている。勿論、患者の立場に立ってしっ
かり診てくださるドクターもいる。これもすべて個人の問題だといいたいが、今の
医療保険のシステムでは限界があるようだ。整形外科で治らなかった症状が、整体
など代替医療で改善していく場合がある。どちらの方が上とか下とか言うのではな
く、確かに人を診る視点が違うようだ。

 また、病気を持ち続けることで取れるバランスも有る。クライアントの話を良く
聞く。これは整体師の基本。幸い私たちはドクターと比べてクライアントと関わる
時間が長い。ましてタッチングをしていく仕事である。クライアントの口から発せ
られた言葉と、同時に手から伝わってくる「内なる思い」の両方を受け止めること
ができる。関わり合いを仕事としていく業種としては恵まれていると思う。逆にこ
ちら側の事も「すべてお見通しだよ、先生」という事にもなりかねない。襟元を正
して対座しなければ、かえって迷いを作ってしまう。これは言葉以上に心の奥に残っ
てしまう。「心の力」侮りがたしである。



『 声帯と整体 』 2003.6.2

 うちに来られるクライアントに声楽のY先生がおられます。このY先生はオペラ歌
手で、年に何回も公演をこなし、自宅で声楽を教えておられます。もともとは、Y先
生のお弟子さんがうちのクライアントでそのご縁で、定期的に体の調整をさせても
らっている。そのY先生から聞いた興味深い話を・・・。

 今更ながらの話であるが、声帯は筋肉であるということを再認識した話。Y先生
は公演の前にお弟子さんに肩、背中を、一時間ぐらいマッサージしてもらうそうで
ある。この事はもともとうちに来られていた、お弟子さんに聞たことがあった。そ
の時は「ふう〜ん。そうなんだ?」という感じであった。だからあんまり気に留めて
いなかった。初回にY先生を施術させてもらった時にその話題がたまたま出た。そこ
で教えてもらったことが、冒頭に書いた「声帯は筋肉である」というくだりだ。

 運動をし過ぎたり、仕事で同じ場所を継続的に使うとオーバーユース(使いすぎ)
になり、その部分の機能が低下する。体表から触れることのできる筋肉はコリが溜
まったり、筋肉痛になったりすると容易に認識できる。しかし、この声帯という器
官が筋肉疲労を起こすということは、なかなかイメージしにくいのではないか。カラ
オケなどで歌いすぎてのどを痛めるということはあるが、筋肉を酷使しているとい
うのではなく、表層部の炎症という感じがしていた。

 声帯も使いすぎると硬くなるのだそうだ。筋肉は使っていない時はやわらかく、
使う時にすばやく収縮するのが良い筋肉である。声楽というのは体を楽器に見立て
発声をするという。声帯がリードに当たりボディが共鳴装置となるということだ。
そのリードに当たる声帯はやわらかい程、振動数が高く高音が伸びるそうだ。だか
ら楽器を手入れするように声帯の整体(しゃれではありません)が必要だということ
である。

 またこんな話も聞いた。お弟子さんのレッスンをする時の話であるが、あるお弟
子さんの発声がどうも真っ直ぐにY先生のところへ来ないそうである。なんか曲がって
る感じがするそうだ。不思議に思ってそのお弟子さんの背中を見ると背骨が曲がっ
ていたそうだ。共鳴器であるボディが真っ直ぐでないと、体から発した声が曲がっ
てしまうそうだ。

 ボディワークで発声のワークをする時、数名が横一列に並ぶ。その後ろに7、8メー
トル離れて立つ。そして後ろ向きに並んだ中の誰かを目指して「おーいっ」と呼び
かけるのである。並んでいる人は自分が呼びかけられたと思ったら手を上げるので
ある。声が届かないということがある、別に声が小さいわけではないが、並んでい
る人は自分に対する呼びかけだと思ったら手を上げるという約束だから、自分に届
かなかったらあげない。また、2、3人一度に手を上げることもある。何回かやってい
くうちに目標の人だけに、手を上げてもらえるようになるのだ(もちろん個人差はあ
るが・・・)。

 発声は声を出すことだけではない。何かを相手に伝える目的がある。有る時は歌
として伝えることもあるし、また有る時は講演として伝えることもある。言葉の意
味ではなく、その発する音にエネルギーを乗せて伝えていきたい。耳のいい声楽家
にかかれば発声だけでその人の体の歪を言い当ててしまう。これはもう整体師のラ
イバルである。声楽家恐るべし。

 私の関わっている講義の種類においては、6時間ぶっ通しでしゃべり続ける授業も
ある(10分程の休みは2、3回ある)。とにかくエネルギーを伝えていこうと思う。6時
間マイクを握ってカラオケを一人で歌うようなものである。私はそう音痴ではない
と思っている(学生時代はよくフォークソングをがなっていた)。が周りは音痴だと
いう。これは声楽整体的に見たらどういうことなのだろうか。ガタガタなのだろう
か。でも、生徒の皆さん授業では歌は歌いませんからどうぞご安心を・・・。



『 裏方 』2003.5.26

 先日、大学時代のクラブのOB会があった。ここ数年開催されていなかったが、先
輩が7月からアメリカに永住するということで、急遽開催された。20代から60代ま
で20名ほどが集まった。最大年の差約30歳、親子ほどの違いがある。20数年ぶりの
再会の先輩も居た。みんな年をとっていた、もちろん私も。時が進むにつれて学生
時代の面影が出て、遠い昔の話に花が咲いた。

 話をするにつけてみんな20歳前後の顔に戻る。数十年をタイムスリップしている
ようだ。4年間共に汗を流した同期生、怖い先輩やこき使った後輩たち。みんないっ
ぱしの社会人になっても、ほろ苦くかつ楽しかった青春時代の一コマに酔いしれて
いたひと時であった。

 学生時代からお手伝いしていた道場のT先輩が、フランスで修行していた時、私た
ちのクラブのN先輩に面倒を見てもらったそうだ。直接フランスのN先輩には恩返しが
できないので、そのN先輩の後輩に当たる私に、とても目をかけてくれたことがあっ
た。そこのT先輩の道場には7年ほどお世話になったが、仕事の都合などで行けなく
なってしまった。T先輩には恩返しができないままであったが、たまたま私の後輩が
今度はそこのT先輩の道場で練習をするようになった。そして彼は偶然私と同じ整体
の仕事を歩みたいということで、今度は私がその後輩の面倒を見ることになった。
形は違うが「何かお返しを」という感じである。

 私はフランスのN先輩とは面識はあるが名前ぐらいしか知らない。そのN先輩が面
倒を見たT先輩が私を可愛がってくれて、今度は又私がそのT先輩の道場の後輩の面
倒を見る。うまく繋がっている。ゆうにこの間の時の流れは30年はある。今も近所
の道場で子供たちの面倒を見ていてるが、これも諸先輩方への恩返しのつもりであ
る。

 普通この仕事をすればいくら収入がある。と考えることも大切である。これを「地
上の貯金」という。それとは別に今すぐには結果の返ってこない行為を「天の貯金」
という。この言葉は筑波大学名誉教授の村上和雄氏がよく使われる言葉だ。私もこ
の言葉が好きだ。たとえば困っている人を助けたとする、その人は感謝の気持ちを
言葉を表明する。人助けは確かに善いことだしかし、その行為は感謝の言葉によっ
て既に報われている。善意と謝意でトントンだ。

 見えないところ、裏方で行われることは見返りがない、だから天に貯金がつめる
のだ。今回のOB会も手配から案内状の発送まで、物事が勝手に動くはずはない。裏
方で動いてくださった先輩が居る。名簿の整理から発送まで、けっこう大変だ。卒
業後何年間も音沙汰のない人の追跡から始まる。といってそれに報酬は当然ない。
私たちは何年ぶりかの再会でとても楽しい時間が過ごせた。その裏方さんのお蔭で
ある。

 数日前のことである、郵便局へ貯金のことで話を聞きに行った。窓口で局員の人
に話を聞くといろいろ親切に教えてくださった。「こういう場合はATMで預けるより
窓口の方が有利である」とか・・・、4月に民営化されどんなもんだろうと窓口を訪
れたが、丁寧な対応に感激した。さて、これは民間となった為のサービスなのか、
それともその人個人の性格なのか、全員に尋ねた訳ではないので断定はできないが、
少なくとも私はいい心持で帰ることができた。

 私たちの整体という職業は人と関わっていく事で成り立つ職業である。クライア
ントと共通の時間を共有できる。わずか一時間足らずの時間であるが、背中を軽擦
し、すうっーと掌に気持ちを込めて一つになっていく、この瞬間から我・彼なく溶
け合っていく。掌を通してクライアントの心の裡(内)を感じる。100%そうなる訳で
はない。しかし、そうなりたいとは常に思う。クライアントを変えよう(病気を治そ
う)とは思わない。関わり合い見守っていける関係でありたいと思う。人は自分ひと
りでは生きていけない。支えあって生きていくのだと思う。一人一人は弱い生き物
だから。だから見えないところでそっと支えになりたい。



『 リセット 』2003.5.17

 今日は札幌での講義の日だった。いつもより一時間早い飛行機に乗る。この時間
帯は初めてだった。いつもの飛行機が取れないということだった。リムジンバスで
伊丹空港へ向かう為にバス停に急いだ。バス乗り場に着くと、ずらっと人が並んで
いた。でも時間は充分取っていたので、余裕で列に並んだ。一本見送り次のバスに
乗った。空港に着いても余裕で、ビザセットの朝食をとった。セットにワンピース
余計に追加して食べた。ここまで全て順調、余裕の気分でホットコーヒーを飲み干
した。すでに搭乗手続きは済ませてあるので、後は持ち物検査をして飛行機に乗り
込むだけだった。

 私はやっぱり飛行機が苦手だ。鉄の塊が飛ぶのはいまだに解せない。初めて乗っ
たときの印象がトラウマになっているのか。最初に飛行機に乗ったのは二十数年前
である。太極拳の研修で訪中した時に乗った中華航空(だったと思う)の翼が妙にガ
タガタ揺れていたのが気になる。後で聞く所によるとあれはあれで良いそうだ。だ
けど最初の印象はどうも拭いきれないようだ。

 苦手意識があるからか、なるべくなら飛行機に乗ることは避けていた。しかし講
義で札幌へ行くようになって、ここ一年ぐらいで十数回乗ったが、チェックインな
どのシステムが、今一つよくわからない。このことに関しては解からなくても研究
心がむくむくと湧いてこないのである。私の研究心は関心の無いことにはぜんぜん
反応しないようだ。(皆そうかな?) だからという訳ではないが足取りが重たくなる。
余裕が有るつもりでも結構ぎりぎりになったりする。

 所持品検査のゲートに向かった時である。いつものつもりで出発の20分前にゲー
トに到着したが、着いてみて愕然とした。そこにはズラ〜ッと人が並んでいるのだ。
そうです、今日は混んでる日だったのです。いつもの時間の飛行機は満席で一本早
い分しか取れないという時に、気をめぐらせておけばよかったのだが・・・・。

 焦った、「乗れないのではないか」「間に合わない」そんな思いが頭の中をよぎっ
た。ピザを追加しなかったら良かった・・・。でももう後の祭りである。思わず天
を仰ぎ「オー・マイ・ゴット」とは言わなかったけど、「神様お願い」と心で叫んだ。
すると途中で列が二つに分かれ列が半分になった、新しいゲートが開いたようだ。
まさにこの時は、モーゼの十戒で海が割れたような気分だ(オーバーな)。結局席に
着いたのは出発7分前であった。

 今回のドキドキの原因は、「いつもは」という思い込みである。学院の生徒さん
には整体をする時は、「固定観念にとらわれてはダメである」と言っておきながら
今日のていたらくである。何も無いときは「いつもは」が通用する。一度事が起こ
れば、「いつもそうだから」は何の意味も持たない。大きく反省・・・。

 整体を学び始めて3年目ごろに陥る罠がある。普段学院では自然治癒力の大切さの
話をしている。生徒さんも解かってくれているはずである。が、卒業して3年ぐらい
経つと勘違いが始まる人がいるのだ。毎日「先生、先生」って呼ばれるようになって
くると、「この患者さんが治るのは(治ったのは)、自分の力ではないだろうか」とい
う気持ちが湧き上がってくるようだ。そんな人をたくさん見てきた。悲しい瞬間であ
る。生徒時代は謙虚で「この人は、いいヒーラーに成るだろう」と思った人が、卒業
して半年も経たないうちにすっかり“先生”が身に付いてしまった人もいる。そんな
人に限って勉強を止めてしまってる。

 この整体は一生勉強である、歩みを止めてしまったら伸びていかない。でも、それ
でも仕事ができてしまうところがある。確かに技術は経験年数に比例して巧くなって
いく。しかし心の部分は自分で磨きをかけなかったら光らないのである。同じところ
で足踏みをしている人を時々見かける。この部分は言葉では、なかなか伝えていけない
所なのでとてももどかしい部分でもある。

 講義は5時までだった。札幌駅5時10分発の新千歳空港行きの電車に乗るために、挨
拶もそこそこに教室を飛び出した。今度は急ごう朝の轍は踏むまい。列車の窓から初
夏の北海道を眺めながら考えた。そうか「今日は大自然に触れるために北海道に来た
んだなぁ。」そう思い、納得しようとした時ふと昼間の行動がよみがえった。一時間
も早く着いたの、行った所なぜか駅前のビッ○カメラだった。あ〜ぁ、一番リセット
しなけりゃならないのは僕の頭だ。



『 タブローはタイムマシン 』2003.5.12

 大学時代よく美術館や画廊に通った。別にカッコ付けるわけでもないが、そうい
う大学だったので授業の一環として見に行った。その時は構図がどうだとか、テク
スチャーがどうのという見方をしていたように思う。大学を卒業してその延長線で
数年間は展覧会によく行った。今の仕事に変わってからはぜんぜん行っていない。
なんとなく遠ざかってしまった。

 半年ほど前、金沢で講義をする機会があり、始まるまでの時間を持て余していた
時、ふらっと入った駅前のデパートで、開催されていた油絵の展覧会に足を運んだ。
新進の作家であろう?(名前を知らない。単に私が知らないだけかもしれないが・・)。

 タブロー(完成された絵画作品。エチュード・デッサンなどに対していう。)と向
かい合う時、そこに描かれているモチーフよりも、作者が描いているであろう情景
のイメージが湧いてきた。いつ制作されたものかわかんないけれど、その作者がキャ
ンバスに向かっている時と、ギャラリーで私が見ている時は当然、時間的なズレが
有る。一、二ヶ月前に描かれた絵でも、何百年も前に描かれた絵でも、時を越えて
今、作者と対面することができるような気になる。なんか不思議な感じがする。
 
 作者は体の中に湧き上がる思いを表現する。作者から切り離されたその感情は絵
の具と筆を通してキャンバスに込められる。そのまま時を経、空間を移動して私の
目の前に現れる。するとそこに込められている作者の息吹を直接感じることができ
たような気がした。そんな感覚になった。
 
 展覧会を見る時、絵画から距離を取りぐるっと回る、すると目に飛び込んでくる
絵が何点か有る。そして一通り回ってからそれらの数点の絵をじっくり見る。昔か
らこんな見方をしていた。昔はなんとなくそれが“通”の見方だと思っていた。理
由は違うが今回も同じ様な見方をした。絵の気を感じたいからだ。絵が呼んでいる?。
凝縮された作者の「気」が目の前で解凍されていくそんなイメージだ。

 整体でクライアントと向かい合うとき、その人のエネルギーを感じる、気とは少
し違う。その人の生き様が問診(カウンセリング)をしていると、ぶわーっと目の前
で解凍される思いがする。吐き出される言葉の裏(奥)にある何かに触れる瞬間が有
る。

 元来、私は整体は施術をするものではなく、「二人のセッションである」言って
いる。当たり前だが一人ではできない仕事である。体を押すという行為の中で、魂
の共鳴を感じることが有る。体の奥から突き上げてくるものを感じる時が有る。そ
んな瞬間を共有できた時、整体師をしていて良かったと思う。勿論いつもいつもで
はない。年に数回のセッションである。

 私たち人間は一人一人が、かけがいの無い命を持っている。苦しい時、楽しい時、
笑っている時、怒っている時すべてが生きて、命輝いている瞬間である。一人一人
の代用品っていうのは無い。すべてタブローである。コピーには無い息吹をタブロー
は発している。その輝くエネルギーに触れる瞬間、私も輝を頂戴している。



『 趣味 』2003.5.4

 「趣味は何か?」と聞かれたら私は、「仕事、バソコン、園芸、熱帯魚」と答え
る。すると大概の人は「えっ、仕事が趣味ですか?」って聞きなおされる。「いや
いや、そんなに大層な、仕事が趣味というより、趣味を仕事にしてるのですよ」と
いうとますます怪訝な顔をされる。こんな風に言い出してもう7、8年経つような気が
する。別に働くのが大好きなエコノミックアニマル(これはもう死語かな)ではない。
整体が好きなだけである。だから年内無休(正月三が日は休み)で働ける。

 「人に喜んでいただけることに喜びを感じる」と大それた事を言うつもりは無い。
ただ人が変わっていくのを見るのが好きみたいである。というよりもそのプロセス
と関われることが好きなのかな?

 私は幸い大病をしたわけでなく、運動(武道)からこの道に入った。“ツボ”とか
“急所”とか“気”からである。高校生ぐらいから興味を持って研究をしだしたか
ら、かれこれ30年以上は経ったようだ。人にものを聞くという事が嫌いな性質だか
ら、ずいぶんと回り道をしたように思う。最初に挙げた趣味はよく考えるとほとん
ど独学だ。

 パソコンもMSXの時代からBASICをやっていたし、もっとさかのぼれば小学生から
のラジオ少年だった、この年齢の人なら分かる「鉱石ラジオ」の時代である。それ
からアマチュア無線をして、パソコンへたどり着いた。PCはウィンドウズ95が巷で
騒がれたときに、Macを手に入れた(へそ曲がりでもある)。ずっ〜とあこがれていた
マック(パフォーマー)を大事に使っていた。

 でもウィンドウズに鞍替えした。シェアが低く何を買うにも割高になることと、
一番の不満は、生半可の知識ではハードがいじれないことだ。それで私も数年前か
らウィンドウズに変更した。その時はまるで身売りする心境であった。まぁ今は、
家族には分からないように、中身をどんどん進化させている。

 園芸はというと、昔は母親の植えていた草花を抜いてしまうという、当たり前の
(?)少年であったが、整体院を開業する15年前より大の花好きになってしまった。
最初は花の性質も分からずただ見た目で買っていたので、日光が必要な花は当然室
内では枯れる。こうなるとまた研究の虫がむくむくと目を覚ましてしまった。土作
り、堆肥作りからのこだわりである。以前玄米菜食のときにも書いたが、なんでも
徹底的にやってしまうようである。

 今は日当たりのいいベランダのある事務所に引っ越したので結構沢山の鉢がある。
大小あわせて4、50鉢ある。今日は連休の中日で午後から時間が空いたので、ホーム
センターに行き、土と苗を買ってきて、植え替える予定だった。家の方の植え替え
作業を先にしたら、事務所まで手が回らなくなった。また今度ひまをみつけて続き
をする予定だ。

 園芸療法というのがある。土と関わることにより癒しの効果があるようだ。アート
セラピーの中には、素敵な絵、好きな絵を鑑賞するというパッシブ(受動的)セラピー
と、自分が絵を描くというアクティブ(能動的)セラピーがある。この園芸療法はさし
ずめアクティブなセラピーになるだろう。土を触っているとなんか子供にかえって泥
んこ遊びをしているようだ。

 最後の熱帯魚は一昨年から始めた。最初は新聞でメダカの稚魚を50匹プレゼント
というのに応募した。イメージでは2cmぐらいのメダカが来る予定でミニ水槽(30cm
クラス)を用意して待っていた。送られてきたのは体長3mm程のかえったばかりの稚
魚である。ペットボトルの上半分切った容器で飼えると、説明書には書いてあった。
が一週間ももたないでみんな死んでしまった。むくむくっ、そこでまた研究心が頭
をもたげてきた。そしてまた水作りから始まったのである。

 現在は、10種約100匹(どんどん子供を産んでしまった)の熱帯魚が60cm1本と30cm2本
の水槽で所狭しと泳いでいる。こちらは花と違って死に直面する。さっきまで一緒に
泳いでいた、仲間同士が死んじゃうと餌になる。半日目を離すと、骨だけになってい
る。(ちなみに餌は肥満魚になるぐらいしっかりやっている)。閉じ込められた空間の
中で営まれる魚たちの生老病死を観察するのもけっこう癒される。気がついたらすぐ
時間がたってしまっている。

 私、以外にもこだわり性の人という人はたくさん居ると思う。そのこだわりが体に
症状として現れてくるということが往々にしてある。心のこわばりイコールからだの
こわばりである。こだわること自体は悪くないことである。ただそれだけになってし
まうとバランスが悪くなる。バランスが悪くなると、いろいろ不調が出てくる。こだ
わりを持つ分、アバウトな部分も持とう。何事も片寄ったらダメみたいだ。だから僕
の趣味はバラバラだ。そのバラバラが僕のバランスを微妙に取ってるといえる。だか
ら整体は趣味と言っていたい。私たちができるのは、ほんと自然治癒力のスイッチを
入れるお手伝いしかできないんだから。ふっ〜と、か・た・の・ち・か・らを抜いて。



『 それにつけても人それぞれ 』 2003.4.27

 整体学院の私の授業の中に「アートセラピー」という講座があります。妙にアー
トという言葉の響きに好感を持ちます。私のプロフィールにも『ベースになるのは、
「健康」ですが、もっと大きな視点で人間と自然や、アートと癒しなどグローバル
な視点で人を見つめるということをテーマに、進めていきたいと思います。』なん
て大それた事を書いております。

 このアートセラピーの授業には4つのネタ(題材)があります。一つ目は今の自分
を木(樹)たとえて表現してください。二つ目三つ目は曼荼羅図として円の中の有る
幾何学模様に彩色していくものと、直径25Cmぐらいの円(これだけが描いてある)の
中に心象風景を描いてもらう。四つ目は大小の半円が20数個かかれています。この
半円に絵を継ぎ足して自分のネットワーク(人間関係)認識しようというワークです。

 生徒さんには12色の色鉛筆を渡して、自由に書いてもらいます。時間は約20分ぐ
らいです。描き終わってたら自分の描いた絵を持って集まってもらいます。そして
「絵を描く時どんな気持ちになる?」「描きはじめと今とでは何か感情の違いが有
る?」なんて事を質問します。で、誰から発表するかということで、発表の順番を
ジャンケンで決めます。僕の右隣の人と左隣の人にジャンケンをしてもらって、勝っ
た人が先か後を決める権利を得るという段取りです。

 ここで勝った人の7割強の人が「後から発表する」と答えます。そこで僕は、「ハ
イ分かりました。じゃ○○さんからお願いします。」というと、ジャンケンに勝っ
た人がホット安堵の笑みを浮かべます、その時、「じゃ○○さんは最後に発表した
後に、みんなの意見をまとめてください」って付け加えます、一瞬「しまった」と
いう顔をされるのが見て取れます。最後で自分の絵について意見を言った後、僕が
「まとめは」と聞くと、いろいろな答えが返ってきます。

 このようなグループワークをするときに一番感じてもらいたいことが、「10人い
れば10人の感性に触れることができる。」ということです。だから決り文句のまと
めがあります。『それにつけても人それぞれやなぁ』これを出して頂戴といつも言っ
ています。このワークに何回か参加されている方はその答えを知っているのでよく
分かっておられますが、初めての方はなかなかそこまで引き出してこれる方は少な
いです。

 私たちは普段、集団の中で生活をしています。家族という最小の単位から、クラ
スや部署、学校や会社というような規模の違いはあれなんかのグループに所属して
いるといえるでしょう。そんな時ついいつもと同じ人には同じ接し方をしていませ
んか。

 整体をする時にも「いつも調整してるからって今日も同じで大丈夫だろう」とは
考えないように。って言っています。私たち人間は感情の動物といわれるように、
気持ちがあるいは体調が刻々と変化をしています。同じ状態なんて一瞬しかないん
ですね。だのに、関わり方は一つってのはおかしいと思いませんか。いつもと同じ
ように接していたのに今日はなんかプンプンしてるなって感じることはありません
か。一人一人の個性を認めると同時に一人の中にもいくつものパーソナリティがあ
る(別に多重人格の話では有りません)ってのも認識しましょう。

 自分のフィルターで人を見てしまうとどうも摩擦が起こるみたいですね。「それ
につけても人それぞれやなぁ」いい言葉(便利な)だと思いませんか・・・。




『 自然 』 2003.4.19

 皆さんは「自然」といえば何を想像します。季節は春真っ盛り。木々の芽吹きも
まぶしく目に飛び込んできまきますね。自然は実に不思議です。同じものって何一
つないんですね。みんな違う、それでいてそれぞれが微妙なバランス感覚で調和が
取れている。

 今、SMAPの『世界で一つだけの花』っていう曲がミリオンセラーになってま
す。その中で「ナンバー・ワンよりオンリー・ワン」って歌われてます。以前「価値
観」というときに書きましたけど、私はその時々で「どっちもいいや」って思っちゃ
います。一番になりたい時だってありますから・・・。

 自然界は(ココで言う自然はnatureです)他者と競ってないともいえるし、適応と
いうことに関しては、勝ち残ったものが進化をして現在まで生き残っている。とも
いえるでしょ。

 この「適用」という言葉もなんか好きですね。私たちの体は微妙なアンバランス
の上にバランスをとってると言えるんじゃないですか。よく整体では「骨盤が歪ん
でるから治さなくっちゃとか、足の長さが違うから揃えなくっちゃ」とか言われま
すが、私はこの歪みと痛みの因果関係には、クエスチョン・マーク(?)のところが有
ります。(このことに関してはまた後日詳しく書きます。書きたいです。)

 骨盤調整の授業をするとみんな足の長短を気にするけど、目的は揃えるというこ
とでは無く、「クライアントの苦痛を取るということにポイントをおいて」って毎
回言います。でもなんかみんな揃えたがりますね。足の長短がそろうということは、
結果でいいと思います。目的ではないと私は考えます。

 私たちの体は完全に対象ではありません。手足の長さもしかり、顔のパーツもよ
く見ると左右対象では有りません。ものすごくダイナミックな力で、順応していく
パワーを人は持っていると思います。もちろん痛みの原因が体のひずみによる事も
ありますが、あんまり目くじらを立てないほうがいいと思います。

 私の整体院の屋号には「バランス整体院」という言葉を付けていますが、この意味
は左右を同じにするというバランスではなく、調和という意味に解釈しています。
自然界には同じものって無いですね。(私たち人間も自然界の一部です)みんながオ
ンリー・ワンです。

 今から20数年前、玄米菜食自然食主義をしていた時期がありました。徹底的にや
る方だから(だったから)職場で炊事もしていた。その時一週間の完全断食もしまし
た。でもその後すぐやめました。やめた理由は自然食というものを探さなきゃなら
ない、という不自然さが嫌で。その時吉田拓郎のフォークソングを良く聞いていま
し。その中に「イメージの詩」というのがあり、歌詞の中に「自然に生きてるってわ
かるなんて、あぁなんて不自然なんだろう」このフレーズが妙に気になって。



『 北風と太陽 』 

 整体をする時はまずベッドに仰向けに寝てもらう。この時まっすぐに寝られない
人が結構いる。立位のときは内耳にある三半規管の働きでうまく体を調整できるが
横になった時はこれとは違うセンサーが働く。その一つに「筋紡錘」というのが有
る。このセンサーは筋肉の緊張状態を伝えるセンサーだ。

 筋肉が過剰に引き伸ばされると、筋を収縮させる命令を脳から筋肉に出す。だか
ら体の使い方に癖のある人は左右の筋肉にバランスが悪い。(均等な収縮ができない)
その歪んだままの情報を脳に送るので、当然返されてくる命令も狂ってくる。する
と自分では真直ぐなつもりでも横になると真直でない。

 また、夜寝るときに特定の方向でしか寝れないというのも、すでに歪があるとい
うことだ。

 しかし、このことを利用した調整法もある。体(筋肉)が緊張するのは、そこに無
理な力が常に掛かっていいるから、戻ろうとする力が働き緊張が起こる。だから歪
んだ方向へ体を持っていってやると、体は緊張を感じない。そうすると「脳は筋肉
を収縮しろ」という命令を出さなくてもいい。という訳である。

 いま、世界では戦争が現実に起こっている、喧嘩は売り言葉に買い言葉である。
振り上げた手を下ろすにも大義名分が必要なんだろう。強く押せば強く押し返して
くる。

 「暖簾に腕押し」「柳に風」など「相手の力を受け流す」そんな意味のことわざ
がいくつかある。イソップ物語(たぶん)に「北風と太陽」というのがある。旅人の
コートを脱がそうと、北風と太陽が話をしている。そしてまず北風の番だ。ピュー
と吹き飛ばそうとするが、旅人は飛ばされまいとしっかりコートをつかむ。北風が
頑張れば頑張るほど旅人は前にも増してがっちりとコートをつかむ。とうとう北風
はあきらめた。今度は太陽の番だ。太陽はニコニコと旅人を照らし始めた。しばら
くすると旅人は、暑くなってコートを脱ぐという話だ。

 整体も同じである。強い力、痛い刺激を加えると手を当てている部分が緊張し、
かえって緩まないのである。がむしゃらに押しても体表が痛いだけである。相手と
一体に成るつもりでやさしく関わっていく事が大切である。体は自分自身の戻る方
向を知っている。北風と同じように無理やりにはコートを脱がすことはできない。



『 価値観 』

 新連載「風に吹かれて」このタイトルにピンとくるのは、おそらく40歳以上の方
ではないでしょうか?このタイトルは五木寛之氏の大ベストセラー「風に吹かれて」
よりいただきました。(もちろん無断拝借ですが・・・)。この小説は本嫌いの私が
大学受験のために、読みやすい本として手にしたものです。このことがきっかけで
結構本は読むようになりました。なんでも最初の出会いというものは大切ですね。

 さて本題ですが、私の家から事務所に行くまでに高校の塀際を通ってきます。そ
の塀際から道路に大きな桜の木が一本張り出して見えます。ちょうど今が満開で通
る人の目を楽しませてくれています。「ああっ、もう春なんだなぁ」と私もそこ通
るたび心ウキウキとしていました。

 今朝はあいにく昨日からの雨でその桜の下を通る時、「これで花も落ちちゃうの
かな」と思いながら、ふと桜の方に視線をやったところ、雨にも負けずまだまだ鑑
賞に堪えるだけの花は残っていました。

 「おおっ、自然の力はすばらしい!」と感動しようと思ったのですが・・・。
その桜の木の下に目を向けて見ると、散った桜の花びらが散乱していました。アス
ファルトの黒の上にピンクの花びら。そのコントラストもまた美しい。

 で・・・はて、この花びらはいったいどうなるのかな?という疑問が湧いてきま
した。土の上なら土壌微生物の働きでまた土に返っていき、肥やしとなってお役に
立つでしょう。でもアスファルトの上では・・・結局誰かが掃除しているのだなぁ
ということを思い、公道だから市の清掃局がするのかな?その道路の前の家の人が
掃除するのかな?そんなことを考えながら歩いていました。

 同じ桜の花びらも木に付いている時は美しく、はらはらと舞う桜吹雪もまたきれ
いでしょ。でも、落ちたあとはやっぱりゴミかな?!見る立場が変われば価値観も
違ってきます。

 クライアントにこんな相談をよく受けます「もうすぐ彼と結婚するんですがなん
か価値観が違うような気がするんですが・・・」カウンセリングを進めていくと、
彼女の言う「価値観の違い」というのは、「嗜好の違いだ」ということに気がつき
ました。そんな時いつもこの話をします。

 「彼とデートしていて、彼が飲んだ缶ジュースの空き缶を“ポィッ”っいて捨て
たとしよう。じゃあなたはどう思う?」って聞くんです。もちろんぽい捨てはだめ
ですが、そこのモラルに焦点を合わすのではなく、「彼の行為を違和感なくに受け
入れられるか、どうかにポイントをおいてみて」と聞きます。もちろんこの行為に
嫌悪感を感じる人もいますが「べつに」って言う人もいます。

 「相性というのは二人の間のことだから当事者同士がお互いの行動に違和感を感
じなかったら、別に構わないと思うけど、なんとなく違和感を感じるのであればそ
の微妙な感覚は後々尾を引くよ。それを価値感と考えてもいいんじゃない。」と言
うようなアドバイスをします。

 物の見方、捉え方の話でよく例にするのが、ビンに半分のウイスキーが入ってい
る話をします。ある人はもう半分しか無い。またある人はまだ半分も有る。皆さん
はどちらの考え方ですか・・・。

 この話でポジィティブシンキングの話を持ち出す人がいますが、私は答えはそれ
ぞれがその時に応じて考えていけばいいと思います。だってある時は「まだ半分も
有るじゃんガンバロー」、って思うときもあれば「もう半分しかないのか、どうし
よう」って思うこともあるでしょ。人の心は流動できでいいじゃないですか。

ポジティブシンキングの功罪って結構あるかも。しんどい時はしんどい。でも頑張
らなきゃいけない人もいるし、ゆっくり充電が必要な人もいる。

 今ある常識は10年前は非常識だったかもしれないし、また今後、無意味なものに
なるかもしれません。絶対のものなんて無いような気がします。

 春になったら桜が咲いて、散り際がきたら潔く。それも自然の摂理です。でもこ
の桜の存在、散るまで気づかなかったなぁ・・・・!今年は???